私にはどうしても後悔していることがある。この後悔が消化される日はないと思う。私の心の奥深くにずっと居座り続けるのだ。
六人家族から二人家族へ。離れていてもつながっているはずだった。
私は六人家族だった。祖父祖母父母兄私の六人。父方の祖父母と同居していた。しかし、今は二人家族である。母と私の二人っきりだ。私の両親は離婚している。といっても、私が成人してからだから子どもである私も納得した上での離婚だった。もう十年近く前の話だ。
もちろん、受け入れられなかった時期もあったり、荷物をまとめながら泣いたりした日もあったが、今は気楽に暮らしている。
別々に暮らすことにはなったが、今でも父方家族とはたまに連絡を取る。特に父方の祖父母には、小学生時代に送り迎えをしてもらったり昼食を作ってもらったり、色々と世話になったから、様子が気になっていた。
祖父が亡くなったのは五年程前のことである。突然、というわけでもなく、元々体調の悪かった祖父は入退院を繰り返したりデイサービスを使ったり、そのくせお酒をたらふく飲んだり、健康には程遠い人だった。
若い頃は祖母に相当迷惑をかけたらしく、トラクターで田んぼに突っ込んだり、酔っ払って暴れたり、それはそれは自由な人だったらしい。祖母は毎日のように近所に頭を下げて回っていたという。
しかし、私にとってはただの優しいおじいちゃんだった。雨の日はノロノロ運転で学校まで迎えに来てくれたり(今なら免許返納)、大きくなったなあと言って胸を触られたり(今ならセクハラ)、たまにその横暴さの影は残しつつも、優しいおじいちゃんだった。
通夜の夜。泣いてもいいのかさえわからなかった。
通夜の日、私は父方家族から呼ばれて参列することになった。その頃、すでに兄は結婚していて兄の奥さんも参列者に呼ばれていた。
昼頃だっただろうか、父に呼ばれ、私は畳の部屋に通された。そこには棺桶があって、色のない祖父がそこにいた。私は一瞬だけその顔を見て、本当にもうこの世にいないのだと実感した。私は祖父の顔を少しだけ見て席を外した。
通夜が始まった。小さなホールのようなところにパイプ椅子が並べられていた。記憶は少し朧気だが、それなりに人が集まっていたように思う。祖父には兄弟も多く、賑やかに通夜は進んでいた。
確か喪主は父だったと思う。遺影を抱いて、パイプ椅子に座る参列者の前に立ち、祖母と兄を連れて話をしていた。参列者へのお礼や祖父の思い出話を語っていたと思うが、内容はあまり覚えていない。
私の気持ちはそれどころではなかった。私は兄の奥さんとともにパイプ椅子に座っていた。もう家族じゃないから。
祖父が亡くなったとき、私はもう祖父の家族ではなくなっていたのだ。確かに私は祖父と数十年過ごしてきたのに、母方の籍に入った私は社会的には他人になっていた。
父の横で涙することも、祖母の隣で肩を抱き合うことも、兄と一緒に唇を噛み締めることもできなかった。親の離婚に不満は全くない。しかし、十数年祖父と暮らしてきた私は、数年兄と暮らしてきた奥さんと同じ存在になっていた。
私は泣いてもいいのかさえわからなくなっていた。悲しくて辛くて耐えられないのに、部外者の私が泣いていいのかとさえ思った。隣にはまだそれほど話したこともない兄の奥さん。その状況が私を酷く苦しめた。
大切な人とのつながりは、誰にも奪えない。逃げずに生きていく。
翌日の葬式に私は参列しなかった。私は逃げたのである。適当なことを言って逃げた。通夜には行ったからいいでしょう、そのぐらいの言葉を吐いたかもしれない。私の心はぐしゃぐしゃだった。でも、これが家族という制度なのだと思った。紙切れ一枚で社会が変わる。環境が変わる。大切な人が亡くなったとき、病気になったとき、隣にいる権利さえなくなる。
私は今、あのとき葬式に行かなかったことをずっと後悔している。もっと祖父の顔を見ればよかった。堂々と泣けばよかった。恥ずかしくてもおじいちゃんと叫べばよかった。パイプ椅子に座ることぐらい、歯を食いしばってでも耐えればよかった。それぐらい祖父とは大切な時間を過ごしてきたはずなのに、葬式から逃げたせいで私は紙切れには書かれていない家族からも逃げたことになってしまったのだ。
祖父にはもう会えない。祖父の墓参りにはいつも罪悪感を持っている。それは薄れていくことはあっても消えることはないのだろう。
数年後か数十年後か、紙切れに書かれている家族も書かれていない家族も、もちろん私も、いつかは死んでいく。恩師だって友達だっていつかはいなくなってしまう。
そのとき、私がどんな立場であったとしても、その人が大切な人であるならば、きちんと顔を見て、きちんと泣いて、できる限りそばにいたい。そんな強い心の人間に私はなりたい。
後悔は消えない。しかし、私はこの後悔を糧にして、これからを生きていきたい。後悔を繰り返さないように。