食欲なんてない。独りでいきていく重圧から解き放たれたかった

あんなの初めてだった。まさか、この私が、スマホで集める情報の多くがレシピや食べ物の新商品のことで、食後にすぐ次の食事の献立を考え始める、色気より食い気を地で行くこの私が、失恋で食べられなくなる日が来るなんて思いもしなかった。今までこんなことなかったというのに。甘いものは別腹、といいつつ食後に乗った体重計のふらふら動く数字に一喜一憂しておいてまた糖分を求めてしまう朝令暮改な私が、味覚をただの刺激としかとらえられなくなり、特に甘みと脂分が重荷となってしまう日を迎えるようになるとは、まったく予想していなかった。

それでも、いきていくために食べなければならない。いきたい、と思っていなくても。いきる意味、目的、これから独りでいきていくという重圧、すべてから解き放たれたかった。なんとかいきながらえないといけないんだな、と思いつつ食物を口にするが、それは単なる苦行だった。最低この量は食べないといけない、かと言って食欲なんてない。食欲を強く支えていた、いきたいという欲求がないに等しいのだから。その頃の食事は、私にとって目前の食物がなくなるまで口に運び咀嚼するだけの作業に陥っていた。

感情の沼に沈み、突如始めたゲームや手芸は、用をなさなくなった

そうこうしているうちに、いつしか数キロ減っていた。当然だ、食べる量が減ったのだから。身体は身軽になるかと思いきや、そんなことはなく、失恋が私の日々に影を落とし続けた。感覚という感覚が変に鋭くなり、音が大きくキンキンと響くようになり、生活音に苛立ちを隠せなくなる一方で身体は泥のように重いというアンバランスな状態になった。

とにかく毎日何かしないといけない、いきている意味を作らないといけないと思い、しまいこんでいたゲームをやってみたり、柄にもなく手芸を始めてみたりじたばた藻掻いた。が、落ちてくる影は重く、暗く、寒々しく、堪え性も体力もない私は耐え切れず闇夜にまかせ、どろどろと感情の沼に沈んだ。突如始めたゲーム、手芸たちは用をなさなくなってしまった。涙は流れなかった。寝つくのに難儀する日が続いた。

過去の私を救っていたものは。仕事を始めて、ここちよい空腹を覚えた

本当にこのままではいけない、と新しい仕事を始めた。仕事中は影に苦しめられる瞬間があっても、作業しているといつの間にか忘れ、没頭し、影を感じずにいられた。仕事を始めてから気がつけば、自然とここちよい空腹を覚えるようになっていた。

忘れていたこの「空腹」という感覚。ぐう、といういのちの響き、腹部のふるえに、感動してしまった。私が、私の感覚が、動き始めたと思った。知らず知らずのうちに芽生えていた空腹に促され、スナップエンドウを口にした。ぱりぱり、甘い。私の味覚がよみがえってきたみたいだ。きれいな、鮮やかなみどり。ほんのり透けて、中が見えそうで見えない。夢中になって食べた。とってもおいしい。

「ああ、私は食べることが好きだったんだな」

食べ物が私を救った、あれやこれやが再生された。アルバイトでくたくたになったあの晩に食べた、少しお高いとびきりおいしい焼き菓子。財布のひもをゆるゆるにしてご褒美に買ったんだっけ。いつもひとり食レポしてたな。試験直前のいっとき口にしたメッセージつきのチョコレート菓子。あのひとことに励まされたな。デパートの帰り道、いつも口にしていた炭酸飲料。あの風味とともに立体駐車場の暗闇から明るい通りに出る一瞬。ひたすら懐かしんだ。

「食べるの、やっぱり好きだなあ」

今はまだ、失恋前ほど量を食べられない。でも、もう大丈夫。思い出に寄りそう食べ物を、少しずつ振り返って思い出して、ゆっくり歩いていけるとわかったから。また、食べたいと思ったときに食べられるようになればいいなって。今日も少しずつ食べていく。さあ、今日は何を食べようかな。