「食」は女子力の評価基準ではなく、生活に欠かせないもの

「女子力高いね」
定期的に自炊をしていると言った時や、職場に手作りのお弁当を持っていくと必ず言われるこの言葉。本当に嫌いだ。

にっこり笑って「ありがとうございます、肉じゃがが得意なんです。お母さんに教わって」とでも言えばいいのだろうか。ウケはいいかもしれないけど、それは真実じゃない。
一応肉じゃがも、昨今話題のポテトサラダも作れるが大変だし、魚肉ソーセージとキャベツを適当にちぎって炒めたヤツの方が得意だ。私が料理をできるのは、実家を出てからの長い一人暮らしのなかで「こっちのほうが楽だ」と判断したからである。
でも言った方にとっては褒め言葉のつもりなんだろうな、とわかるから「へぇ、まぁ。えへへ」と笑って当たり障りのない返事しかできない。

食べること。人間の三大欲求のひとつ、そして人が生活していくための三本柱のひとつ、「食」。まぎれもなく生活の一部のはずなのに、「女子力高い」の一言で、それは自分を取り巻く「生活」の話でなく外部からの「評価基準のひとつ」になってしまう。全人類、ご飯を食べるのに。

「簡単に手に入る自分の好物を見つければ、どんな時も大丈夫」

食べることは好きだ。ブログに自分の好物の話を延々と書き綴るくらいには食い意地が張っている。外食をするのも、コンビニスイーツを吟味するのも好き。鍋いっぱいに好物を作り、笑顔でご飯をかき込むためなら自炊するのもそこまで苦ではない。お弁当に好きなおかずが入っているだけでその日の仕事は頑張れる。深夜の定食屋でスーツのまま泣きながらカツカレーを食べて翌日なんとか仕事に行ったこともある。腹立たしい事があっても、友人と「アイツらも焼いてやろうか!?」なんて愚痴や冗談を言い合いながら肉を焼いてビールで流し込んだら「まぁ、いいか」という気持ちになる。ご飯を美味しく食べているうちはまだ、大丈夫だ。満腹になったらたくさん寝て、頑張れる。

こうなったのは、母からのアドバイスがあったからだ。

「自分の好物を見つけなさい。出来たらどこでも簡単に手に入るものがいい。『これだけは絶対においしい』って思えるものを見つければ、どんな時でも大丈夫だから」
これを言った母も、なにか好きなものを食べることで様々なことを乗り越えてきたのだろう。親からの教えで一二を争う有益なアドバイスだった。

食べることは、私にとって「生きるため」の特別な行為

本当に「どこでも、簡単に手に入る好物」は、何度も私を救ってくれた。どうにもならないくらい辛く、精神的に余裕のない日は、帰りのコンビニでカレーパンを買って食べる。簡単に手に入るので、ダメな時特有の「これじゃないなら、食べなくていいや」という思考になりにくい。お腹にものが入ると少し落ち着いて考えられるし、(大袈裟かもしれないが)空腹という絶望から遠ざけてくれる。

食べることは、私にとって特別な行為だ。荒っぽくて原始的で、でも毎日続く神聖な儀式みたいなものだ。
女だからとか、誰かに認められたり、求められたり、好まれるためにお弁当を詰めている訳では無いのだ。
次に「女子力高いね」と言われたら「違いますよ、生きるためです」と答えたい。

今日も私は、私のために好物を弁当箱に詰める。