私は、食べることで生きているし、生きているから食べる。日々の暮らしの中で、食事は私の体だけじゃなく、心にも栄養をくれると思う。それは、ちょっとした幸福感だったり、明日も生きるぞという気合いだったり、やっちまったことへの後悔だったりする。

私の永い6秒間。気がつけば真夜中だった。

少し前、こんなことがあった。

深夜1時。こんな真夜中に、私は豚バラを炒めていた。家族が寝静まった後のキッチン。夕飯を食べていないので、お腹はペコペコだった。

実は、昼間にどうでもいいことで母と喧嘩をしたのだ。今はもう思い出せないくらいの些細なことだったのに、だからこそ引くに引けなくなって、部屋にこもった。「そうやってすぐ逃げる」という母の声にまた腹が立ち、「絶対に部屋から出てこないでやる!」という幼すぎる誓いをたてた。夕飯も食べないと突っぱね、ベッドの上にぐでーんと乗っかったまま、音楽を聞いたり、見逃した映画を観たりして過ごした。

そうこうしているうちに窓の外は暗くなり、気づけば深夜。かれこれ10時間はこもっていたことになる。人の怒りが続くのは6秒間だと前にどこかで聞いたけれど、私の6秒はすごく永かった。あるいは、本当はもう怒ってなんかいないのに、変な誓約を立てた手前、意地になっていたのかもしれない。いや、多分こっちの方が正しい。

悔しくて飲み込むように食べた、塩辛くてちょっと甘い、豚バラ炒め

空腹には怒りも敵わないらしく、私はこっそり部屋を出た。

冷蔵庫の中には、母が作っておいてくれた餃子があった。思えば、これまでどんなに喧嘩しても、母は必ずご飯を用意してくれた。

けれど、僅かながら残っていた反抗心で、「母の餃子には手をつけまい。自分の食べるものくらい自分で作れるわ!」と、食料を求めて冷蔵庫の中を探索した。

そうして今、豚バラを炒めている。肉を炒めるだけなら、失敗しようがないと思ったからだ。夜のシーンとした静けさに、ガチャガチャ、ジュージューとフライパンの音だけが響く。みりんと醤油、酒と砂糖を目分量で入れると、それなりの見た目になった。野菜ぐらい入れるべきだったとは思うけれど。

適当に盛り付け、「なんだ、私だってやればできるじゃん」と思いながら口に運んでみる。そして驚いた。全く美味しくなかったのだ。ゴロゴロしたかたまりに、喉が乾くような塩辛さと申し訳程度の甘さ。残すのはもったいないし、何より自分で作ったものだから、残すと自分1人では何もできないことを認めるようで悔しくて、なんとか飲み込んだ。胃がもたれる気がして、冷蔵庫にあった強炭酸を一気に飲む。食道のあたりがグッとなって苦しかったけれど、豚バラ炒めのまとわりつくような嫌な後味は消えた。

レンジで温めたお母さんの餃子は……やっぱり美味しい。

炭酸の冷たさと刺激で目が覚めたのか、急に冷静になった。1人で夜中に何してるんだろう。寂しさと虚しさが押し寄せる。

母が作ってくれた餃子を思い出した。取り出して、レンジに入れる。途端に香ばしい餃子の香りがして、ついさっき“なんちゃって肉炒め”を詰め込んだばかりの私のお腹が鳴った。

「いただきます」

あれだけ時間が経っていたのに、やっぱり美味しかった。“いつもの味”がして、2階で寝ている母の顔が思い浮かび、申し訳なさが込み上げた。よく“お袋の味”と形容されるけれど、母が作る料理が美味しいのは、味付けや調理の手腕だけじゃなく、その裏にこんなどうしようもない娘のための愛情や苦労があるからだということを忘れてはいけないと思った。

後日母に、あの夜1人で豚バラを炒めたことを言うと、「だからか!豚バラ消えたと思ってたんだよねー、あんたほんと馬鹿だね」と笑われた。

これまでもこれからも私はずっと、母には敵わないな、と思い続けるだろう。