小学生の時、学校でこういう宿題があった。

「自分の名前の由来を家族に聞いて、調べてきましょう」

由来を聞いたところで一体なんの勉強になるのだろうかと、小学3年生の私は疑問に思った。けれど、少しワクワクとした足取りで家に帰ったことを覚えている。

そもそも、あまり自分の名前が好きではなかった。小学2年生にして紫式部の「源氏物語」にドハマりし、それから一年をかけて平安から昭和初期までの有名な女流作家の小説をあらかた読み漁った私は、"○○の君"とまでは行かなくても"○○子"のような古風な名前に、憧れとロマンを抱いていたのである。

自分の名前は「平成生まれ女児の名前ランキング」の上位にいそうな、各教室に必ず一人はいる名前。由来を聞けば、もしかしたら愛着が湧くかもしれないと。画数が多くてバランスが取りにくくて、書くのが少々面倒な名前の漢字も、もしかしたらその工程ごと好きになれるかもしれなかった。

名前の由来を訊いた私に、母からの衝撃の回答

「別にたいした意味は無い」

たいした、意味は、無いですって?夕食中、焼き魚の小骨と格闘していた私は、母の言葉に箸が止まった。ひょっとしてクラスの他の子達もみんな、たいした意味はないのだろうか。もしそうなら、先生はなんでこんな宿題を出したんだろう。私のパニックを嗅ぎつけたのか隣に座っていた曾祖母は、私の魚の小骨をせっせと抜きながら助け船を出した。

「でも最初は違う名前にするって言ってたじゃないの」

あーそうだったね、と心底どうでもよさそうに母が頷く。どうやら詳しく聞くと、私が生まれた頃に流行っていた女優さんの名前を本当はつけたかったけれど、姓名診断で運勢を占うとびっくりするほど名字との相性が悪かった。その名前をつけるのはさすがに可哀想ということで、適当に変えたのだそう。女優さんの名前と私の名前とでは、響きも漢字も全然違う。というか、試しに姓名判断をしてみたら、私の名前も運勢が特段いいというわけではなかった。若干拍子抜けはしたけれど、他の子達もきっとこんなもんなんだろう、と再度思った。先生には「由来はありませんでした」と言おう。

知らないおじさんが同情して作った名前の由来

しかし次の日の朝、学校に行く時に母から一枚のメモを渡された。

そこには私の名前の由来が書かれていた。けれど、女優さんの話でも姓名診断の話でもなく、名前の中に入っている、ある花の漢字の意味についてつらつらと書かれていた。母が昨夜、彼女の職場先のおじさんにたまたま電話で「娘の名前の由来が無い」という話をしたら、「愛情が足りていない子みたいで可哀想だろ」と言って由来を考えてくれたそうだ。この紙に書いてある通りに発表しなさい、と母は言った。

名前に由来が無い私は、愛情が足りていないのだろうか。はやくに両親が離婚して、そのころ既に父がいなかった私にとって、その言葉は酷く重たかった。

嘘を発表した時から名前にコンプレックスを抱くように

授業中、自慢げな顔で子ども達が自身の名前の由来を発表していく。家族にどれだけ愛されているかを聞かされているような気がして、私の身体は冷えていった。父の愛情でも母の愛情でもない。私の名前にくっついているのは、おじさんからの憐みだ。そんなもの、欲しくなかった。自分の番がまわって来た時、私は紙切れを握りしめ小さな声で、嘘を発表した。

それから自分の下の名前にコンプレックスを抱きまくるようになった私は、名字で呼ばれる事に安堵感を覚えるようになった。下の名前は?などと聞かれると、喉の奥に小骨が刺さったかのように途端に居心地が悪くなる。公式な文書以外では極力、下の名前を書かなくなった。こういう場で文章を書く時も、小説や詩や短歌を作る時も、ペンネームは名字だけ。そう考えると、文学の世界はとても生きやすい。

好きな時に、好きな名前にころころと変更出来たら良いのに、と思う。理由も、ルールも、家庭環境も関係なく。「由来?私が大好きな明治時代の小説に出てくる…」なんて説明出来たら、どんなに楽しいだろう。

親しい友人や、恋人。愛情を示してくれる人が呼ぶ私の名前は、少しだけ心地よい響きに聞こえる。