食べさせることは、生かすこと。
18年間母の愛情で満腹だった娘は、ハタチになろうとする冬、新しい味を覚えた。
姉妹3人と母の4人暮らし。毎日家に帰ると、学校での出来事を話すのが日常だった。テストの順位が下がっただの、アヤカ先輩は練習しないくせに威張ってくるだの、なんでもない日常を食卓に広げてゆく。姉妹そろっておしゃべり好きだったから、2時間以上喋っていることも度々あった。
小学3年生の時に父が亡くなってから、母は働き始めた。当時妹はまだ年中さん、計り知れない苦労があっただろうに、母は毎日夕飯を作ってくれた。特に好きだったのは、オムライス、野菜炒め、白菜と豚肉のミルフィーユ鍋。ミルフィーユ鍋なんて洒落た名前は知らなかったから、笑っちゃうけど「白菜と肉」って食材名で呼ばれてた。
大学進学で上京。母の手料理から離れ羽目を外した結果
私は高校卒業と同時に上京し、寮母さんが作る夕飯を食べるようになった。口に合わないなんてことはなかったけど、母がいつもお弁当に入れてくれた甘い卵焼きが恋しかった。
入学先は都内の私立大学。成績優秀者がもらえる奨学金を必ずもらうことを条件に入学したが、東京生活で浮かれていた私は勉学をおろそかにし、奨学生から転落した。そのことを知った母は大激怒。鬼電の末に「帰って来なさい」とLINEがやまなくなった。熱中していたサークルの大事な予定があるし、付き合い始めた恋人との約束もあったから正直帰省はしたくなかったが、そんなことは絶対に許されない。
帰省はしたものの、気が乗らないことは後回しにしがちな性格のせいで、話を切り出せないまま日曜の朝を迎えた。今夜は恋人の家にいく約束をしていたから、夕方には東京に戻らなきゃいけない。新聞を読む母に、「朝ごはん食べ終わったら時間もらっていいですか」と、こんなときだけ敬語で声を掛ける。
朝食をダラダラ食べたあと、恐る恐る事の顛末を話した。大学に入ってから何に熱中していて、毎日どんな生活をしているのか。そして、これからどうしていくのか。私は自分の考えを話そうとすると涙が先をいくから、ずっと泣きながら、だけど淡々と話していた。
初めて知る、母の苦労と子供の教育への思い
一通り話し終えると、少し黙っていた母が口を開く。叱られる、と身を縮めたが、母は静かに話し始めた。姉妹が金銭的に不平等になることはしたくなかったから、姉が大学に行きたいと言った段階で3人進学が可能か計算したこと。私が私立大学に進学したから、計算が少し狂っていること。まだ中学生の妹が高校から私立にいくことになったら、大学は公立しか受けられないかもしれないということ。
裕福ではないと認識しつつ、母がやりくりしてくれていた状況を全く知らなかった私は、話を聞きながら、また泣いていた。ようやく、母が昔からいっていた「うちは他所と違うから」という言葉の本当の意味を理解し、自分が選べる選択肢の中で生きようと思った。そのためにすべきことはきちんとしようと。
親不孝な私のために母が用意しようとしてくれていた献立
話し合いは昼過ぎまで続いた。気まずいながらも一緒に食べた昼食後、「そろそろ帰るね」と声を掛けると、「あら、今日帰るの?白菜と肉、作ろうと思ってたけど」と母は言ったのだった。
もう耐えられなかった。上京して母親の期待を裏切り、妹の将来さえ奪いかけていた自分に、母は今も大好物を用意してくれる。家を出て多少なりとも自立したなんて思っていたけれど、結局は親の手の中でチョロチョロと動き回っていただけだった。涙がこぼれるのを慌てて隠して、「ごめん、また年末には帰るから」と声をかけた。
湘南新宿ラインにのり、東京へと戻る。「おかえり」と迎え入れてくれる恋人の優しさに触れて、ずっと我慢していた涙が溢れた。母親ときちんと話ができたこと、自分がしてしまった事の大きさ、そして白菜と肉を用意して待ってくれていたこと、食べずに帰ってきてしまったこと。子供みたいに泣きながら話し続けて、そして恋人はずっと頷いていた。
大好きな母の得意料理。これからは新しい味で生きていく
泣きすぎたのか、話し疲れたのか、私はいつのまにか眠っていた。キッチンを見ると、彼が夕飯の支度をしている。料理が得意でいつも美味しいごはんを作ってくれる彼に、「今日のごはんはなあに?」と聞くと、彼は野菜を切る手を止めないまま、「『白菜と肉』だよ」と言った。
食べることは生きること。食べさせることは、愛情を注ぐこと、共に生きようという意思を伝えることだと思う。
母親からいっぱいの愛情を振る舞われて育った小娘は今、東京で覚えた新しい味と生きていこうとしている。