私は何を隠そう、ぼっち歴も早10年の"プロぼっち”だ。
高校でこそ校内で会えば楽しく話せる友人が、片手数えても指が余るくらいにはいたけれども、行動を共にするということはほぼ無かった。誰かとお弁当を一緒に食べたことも移動教室で、誰かと並んで歩いたこともいちいち思い出せるくらいに少ない。
小・中学校で出会った人々の中で、今も連絡を取っている人は全くのゼロ。体育などのペア決めは、“ぼっち”の例に漏れず、こればかりは好きになれなかったが(何故か偶数なのに余ったことも。あれ?)、基本的にはかなり楽しく、そして自由に青春を謳歌してきた。
「ぼっち」になった経緯は、望ましくなかったが結果オーライ!
友達がいないというよりは、一緒に誰かと行動することがほぼ皆無だったというだけかもしれない。いじめにあった経験は無いし、誰かにからかわれた経験すらほぼ無い。周りの環境に恵まれていたおかげで、基本的にみんな優しく接してくれた。
昔から一人でいることが好きで、周りの目が気になることも全く無かったし、むしろ友達がいるなんて一人では何もできないみたいで恥ずかしい、なんてかなりひねくれた考え方をしていた。本格的にぼっちになった経緯は、あまり望ましいものではなかったが、まあ結果オーライということで。
それに贅沢な悩みではあるが、ずっと誰かと一緒にいるということがどうも耐えられなかった。もちろん相手にもよるけれど、休日に誰かと出かけたとしても、途中で疲れてしまってお手洗いの個室に入って鍵をかけると「そのまま出ていきたくない」と思うこともたまにあるし、誘われて観光スポットに出かけても「次回一人で来よう」と思うことが多い。
「ぼっち」は自由で人間関係の悩みもなく、私にとって良いことづくし
さて、ぼっちの何がいいかといえば、まずは自由度の高さだ。自分のペースでさっさと歩き「今日の昼休みや放課後は何をしようかな等」と考えることができる(下校中に急に思い立って電車を使わずに歩いてみたり、制服ローファーで海の近くを走り回ったりなんてこともしていたが、これも誰かと一緒だと難しいだろう)。
文化祭の日だって一人でまわるも良し、バックヤードで読書をするも良し。面倒な人間関係に悩まされることもなく、人間関係の悩みも「なにそれおいしいの?」状態だ。もちろん話しかけてみたい人には積極的に話しかけるので、浅い付き合いが広がりとにかく良いとこどり。人の悪い部分は見えず、良い部分しか見ないで接することができる。
ほかの良い点としては、自立心が芽生えることではないか。これはどちらかといえば必然的な結果だけれども、例えば忘れ物をしても誰かに借りることができないので自然に忘れ物をしなくなるし、先生の話もよく聞いていないと後から誰かに確認することができないので集中して聞くようになる。当然、一人で何かをするということも苦ではなくなる。
私は、いざというときに参加できる「ソリスト」であれば十分だ
そして“プロぼっち”の域に入れば、意外と孤独感というものも無い。誰にも深入りしない分、“人類皆兄弟”のごとく、誰とでも緩やかな繋がりができるのだ。私はクラス替えの直後などの異質な空間では、意外とストレスを感じるといった寂しがり屋の部分も大きいので、これはありがたい。
むしろ固定メンバーで、いつも一緒にいるほうが内部の分裂もあり、孤独感も生じるのではないか。特に3人グループなんかだと。
それに誰か(何か)と親しくなることなら、別に学校内の人々には限定されない。ネッ友も家族もいるし、花鳥風月にも目が行くし、読書を通じて古代の著者や生き生きと動く登場人物とお喋りすることもできる。ちなみに私はある本の著者で、本当に気が合いそうな人を見つけた。「この人とだったら友達になりたい」と思ったけど、その人もプロぼっちらしいから何とも残念なことだけれど。まあ、自分と考え方が合う人なんて言ったら結局そういうことだろう。
以前はこのぼっちネタも自虐的なものだったけど、最近はもっぱら自慢と化してきている。大体、“ぼっち”ではなく“ソリスト”といったらだいぶ印象も良くなると思うけど。いざというときにオーケストラに参加できるソリストであればそれで十分だろう。
もしも人間関係に疲れたぼっち志望者や、自分では望んでいないのにぼっちになってしまったアマチュアぼっちの方がいれば、ぜひ“プロぼっち”をおすすめしたい。