年齢の10の位が2になった。
私の年齢と彼氏いない歴は等号でつながったままだ。
友人と集まったときに一回は出る話題は「彼氏がほしい」。
けど、本当に、私は彼氏がほしいのだろうか。

恋愛の噂に取り残されていった思春期

私は彼氏がいたことがない。でも、人生をそれなりに楽しめている。
もしかして、彼氏がいればもっと楽しいのだろうか。
彼氏としかできないこととは何だろう。

恋愛関係でしかできないあれこれだろうか。
けど、そのあれこれを恋愛関係が成り立っていなくてもする人たちもいる。そもそも、私はあれこれのために彼氏を作るほどの熱意がない。

休日に一緒に遊ぶことだろうか。
けど、私は友人と遊ぶことで十分満足しているし、男性と出かけるよりも既に仲がいい友人と遊ぶ方がきっと楽しいだろう。

旅行へ行ったり、電話したり、なんでもないメッセージを送りあったり、思いつくものはほぼ全部、友人ともできるものだった。なんなら友人としたほうが楽しいだろう。

小中高大、全て共学であったのにも関わらず、彼氏どころか恋愛とすら縁がない人生を歩んでいた。特定の男性に好意を寄せることがなかった。人見知りで、友人といるほうが楽しくて、男性と深くかかわろうとしなかったのも原因の一つかもしれない。

思春期に突入すると、周りには恋愛の噂がグルグルと流れ始めた。「あの子とあの子が付き合っている」とか、「あの子があの子の彼氏を略奪しようとしている」とか。私の周りで、私を取り残して、グルグル回る。
みんなは嵐の中で苦しみながらも楽しんでいるのに、私だけがぽかぽかとした日差しに当たっているような、穏やかで、温かくて、少し寂しい気がした。

恋をして、恋愛が人生に絶対必要なものではないとわかった

大学に入って、恋をした。初恋だった。それは残念ながら実らなかったが、恋をしたとき安心した。
ああ、私は「普通」の女性なんだって。
誰にとって普通か、そもそも普通とは何か、わからない。けれど、自分も恋をしたことがあるという経験に安堵したのは確かだった。

恋愛をして気が付いたのは、私にとって恋愛とは人生を豊かにしてくれるプラスα要素であり、必要不可欠ではないことだ。私が恋愛をすることで得られた楽しみは他のもので代用できる。友達と出かけたりだとか、おいしいものを食べたりとか、一人でゆっくりこんな風に文字を書いたりだとか。
だから、彼氏どころか、私は恋愛自体が人生の楽しみにとって十分条件なのだ。

「彼氏がほしい」は本心だけれど、誰のため?

けれど、友人と話しているときに私も口に出す。
「彼氏がほしい」
本心だ。世間体を気にする私が心の底から言っているのだ。

今、私は大学生だ。入学してから数年経ち、新しい出会いもなくなってきた。大学ではみんながそれぞれ目標を持っていて、恋愛面以外で充実している人が多い。付き合ったことがなくても、見下されることも、変な心配をされることもない。実際、付き合ったことがない人も多い。

けど、世間はどうだろうか。
いざ社会に出たとき、誰とも付き合ったことがないということで変な目を向けられるかもしれない。年を重ねれば重ねるほど、誰とも付き合ったことがないという事実はより重みを増していくだろう。
そのとき、「普通」を気にする私はその重圧に耐えることができるのだろうか。

世間体を気にしなければ、私は彼氏がほしいとは思わない。けれど社会に出たとき、私が「彼氏はほしくない」と言えば、きっとブスのひがみだ、強がりだと言われるだろう。実際、私は世間一般的に「かわいい」顔ではないからそう言われても無視するしかない。
言わせておけばいいと思いつつも、年齢と彼氏いない歴の間に存在する等号は私を苦しめる。

優しい大学の仲間は、友人たちは、私に言わない。けれど、いつか言われるかもしれない。そう思うと言わずにはいられないのだ。

「彼氏がほしい」