朝の電車。降りようとする。誰かに軽くぶつかって、睨まれる。

これだけで今日の私の1日はアウト。急いで軽く謝ってその場を立ち去るも心がざわめき、その日は1日中ふとした瞬間にその人の顔を思い出すことになる。いや、ふとした瞬間どころか四六時中。朝の出来事に完全に心が支配された状態が夜まで、ひどいと翌朝まで続くことになる。忘れようとしても全く忘れられない。お豆腐メンタルどころの話ではない。

不意に向けられる「誰でもない私」への怒りに押しつぶされる

別に電車でぶつかることに限らず、私はこのような他人からとっさに向けられた怒りというものにすごく弱い。相手への罪悪感や嫌悪感というよりは、不意に心が揺さぶられた衝撃や自己嫌悪でどうしようもなくなる。むしろ、直接的に「なつこ」という人格に向けられて発せられた怒りや悪意ならば、全く傷つくこともなく堂々と対峙するか、場合によっては嘲笑気味にいなす、ということが簡単にできる。
しかしこうした不意打ちで、言ってみれば、「誰でもない私」への攻撃にどうも弱いのだ。相手の方だって自らの不快感が反射的に表に出てくるだけなのだろう。それを表に出すか出さないかだけの違いなのだと思う。私はどうもぼんやりしていて、そもそも不快感を感じることがかなり少ないから何とも言えないけど。
(はて、他にもこのような人はいるのだろうか。それともやっぱり私だけなんだろうか。エッセイの形で投稿してはみるけど共感してもらえる自信はない。)

どうしても克服できない……それなら、受け入れてしまおう

この心のもろさには長年悩まされてきたし、どうにか克服してみようと努力もしてきた。そもそもトラブルを起こさないように外にいるときは最大限の注意を払って過ごしているし(これはなかなか疲れる)、内面からの改善も試みて、ネットで見た様々な「メンタルヘルス」を改善する方法も試してみた。しかし、一向に効果はない。日常生活において全くミスをしないということはほぼ不可能なので、次に同じことがあればまた同じことの繰り返し。

それでも最近何となく気が付いたのは、自分の臆病さや敏感さを押し込めて見て見ぬふりをするよりも、思い切ってそれを受け入れた方が立ち直りも早いということだ。押し込めた感情は必ず蓄積されてしまい、結果的に回復に時間がかかる。であれば、「ああ、私まだあのことを気にしてる。確かに怖かったよね」と自分に語りかけるなり、またはそのことを文章に書くなり人に話すなりして消化したほうが良い。以上は私が実践していることだ。また実際、「今日の朝、こんなことがあってさ・・・」と友人に話して笑いあっている人を見たことがある。明るく話してはいるけど、やっぱりもやもや感を抱えていたのかな。このように負の感情と付き合うこともできるんだ、と目が覚める思いだった。

「克服しました!」とは言えない、私はまだまだ発展途上

できれば、このコンプレックスを綺麗さっぱり克服しました!という形でこの文章を終わらせたかったけどなかなかそこまで上手くはいかない。でも、色々ありながらもちゃんと生きていて、このコンプレックスとなんとか共存できているということは、私自身にある程度しっかり向き合えているということなのかな、とも思う。まだまだ発展途上でありながらも。