「最近、適当になったよね」

ひさしぶりに戻った自分の拠点で、そこに住む友人に言われたこの一言に、私は思わず心の中で、ガッツポーズをしていました。

もしこの言葉を、数ヶ月前の私が聞いたら「ふんぬー! 何事! 私は全く適当な人間じゃないわよ!」と、逆上していたかもしれない。そんな言葉をかけられて余裕がなくなるほどに、私は全く適当な人間ではありませんでした。

私は誰かの「信頼」を失うことが怖くて、自分に厳しくしすぎていた

“責任感”という言葉があるとすれば、それは私のためにあっても過言ではないほどに、一度任された仕事は全うしなければと思うし、それを投げ出すこと=誰かの信頼を失うことだと疑わなかった私。

そのせいで昔から、適当に人生を生きている人を見ると許せなかったし、物事を途中で投げ出したり、他人に押し付けているような生き方はだめだと信じて疑わなかった結果、前職でうつ病の一歩手前と診断されるまでに落ち込んだこともありました。

一番怖かったのは、“誰かの信頼を失うこと”だからこそ、自分にムチを打ってでも、頑張ることを目標に、ここまでやってきたのだと思います。

ときにがむしゃらに、ときにゆっくり、それでも、“諦める”“手放す”という言葉が苦手で、なかなか物事を適当にこなすとか、ある程度受け流すという、そういう“グレーゾーン”が全く配慮できなかった私は、他人に対しても自分に対しても厳しく、仕事に関しては甘えることができないままに、27年間年を重ねてしまったのです。

そんな私が今、どうして「適当になった」と言われて、こんなに平凡とのほほんと、それこそ褒め言葉のように捉えられているのか。

それは、この数ヶ月の中で、たくさんの“諦める”を経験してきたから。

ある人は私に「あなたはがむしゃらに頑張った先に、なにを求めていますか?」と言いました。結婚もしたい、彼氏もほしい、仕事も完璧にこなしたい、それでも、誰か別の人に愛される人生も捨てがたい……。

そんな、欲求だらけの私の思考に、その言葉はズシンと入り込んできて、そして同時に「私は、なにを求めているのだろう…?」と同時に、不思議に思うきっかけにもなったのです。

欲求だらけだった…。でも「手放すこと」で、見えてくるものがある

幸い私には、フリーランスでも食べていけるだけの仕事はあるし、このまま順調にいけば、結婚してくれるのではと思う恋人だっている。別の誰かに愛される人生は、“コミュニティ”と呼ばれる場所に所属することで解消されるものかもしれない(私は今、シェアハウスに住んでいます)。

それならば、どうして“がむしゃらに頑張る”ことが必要なのだろう? 今、そばにあるものだけじゃ、全然満足できないってこと……?

私に必要だったのは、がむしゃらに頑張ることではなく、ひとつひとつ、手放す勇気を持つことだと、そのある人は教えてくれました。

これまでの私は、“適当”という言葉が苦手。いや、嫌いというか嫌悪感さえも抱く要因になっていたかもしれません。そのくらい“適当”という言葉に過剰反応してしまい、自分の荷物を下ろすことに抵抗があったのかもしれない。

でも、よく考えてみると“適当”ってそんなにだめなことなのかと思うようになりました。

考えてもどうしようもならないことは、考えない。

今すぐ目の前で起こっていない問題について、アレコレ悩まない。

もっといえば、適当って「その場で起きてしまったら、そのときに考えればいいや」という気楽さのようなものだと思います。

人生に失敗はつきものだけれど、失敗したらまた成功まで頑張ればいい。落ち込むことがあったら、元気になるまで休めばいい。自分ががむしゃらに頑張るあまりに、限界になって誰かを巻き込むよりも、最初から適当な人間でいるほうが、何倍も楽に生きれるじゃないか。

私はこれから、ちょっとずついろんなことを「手放して」生きていく

そう思えるようになってから、“手放すこと”で見えてくるものもあるのかと捉えれるようになりました。もし今、私の目の前に問題が降ってきたとしても、その時に考えればいい。そのあとのことや、どんな問題が起きるのか予想して悩む時間より、今をめいっぱい楽しむことがどれくらい重要で尊いのかを、最近はより噛み締めています。

いろんなニュースで悲しい思いをすることがあるけれど、突き詰めれば人生なんて、本当にしんどいことばかりの連続かもしれないなと思うようになりました。だからこそ、考えすぎたり、悩んだりする人ほど、“生きる”ことに絶望してしまうのかもしれない。

でも、いいじゃん。適当で。「生きてるだけで自分はえらいよ」って自分に言ってあげられたら、私はきっとこの一瞬の人生を、思いっきり楽しむ方向に全振りできるのではないかと思うから。

だから、適当に生きていきたい、そう考えていた矢先の言葉。嬉しかった。純粋に。

「いいじゃん、適当で。生きているだけえらいよ」私はこれから、ちょっとずつまた、いろんなことを手放して生きていく。だって、適当でいいから。生きていくほうが、ずっとずっと大変なんだから、だったら私は、自分に対して「いいよいいよ」と言ってあげられるだけの余裕を持ちたい。

「最近、適当になったよね」それは私にとって、今は最高の褒め言葉です。