中学生時代は、本当に見た目のことを気にしていた。

暇さえあれば鏡を見つめ「もしかしたら前回(数時間前)、鏡を見た時より少しは可愛くなっているかもしれない」という淡い期待に囚われては、毎回失望したり、1日に何回もお腹の肉だか皮だかを引っ張ってはつまんでみたりと、なかなか忙しく落ち着かない日々だった。

勝手に想像して「可愛い」という言葉に囚われていたのもしれない

別に誰かから何か言われたわけでもないが、特別褒められたこともなく、この社会の中での“可愛い”基準に当てはまりたくて必死だったのだと思う。

誰からでも認められる“可愛い”でなければ意味が無いし、それを得てこそ自分の立ち位置が保障されるとでも思っていたのだろうか。社会というものやそこにいる人々というものを勝手に想像し、囚われていたのかもしれない。とにかく周りの目が気になっていた。

華の女子高生になり、ダイエットに少し励み、髪型(ひたすら巻いた)だのポイントメイク(下地というものの概念はまだ無かった)を研究したおかげで、時間と手間をかければ中学までの知り合いには驚かれるどころか、同一人物だと気づかれないレベルの自分を作り出すことができるとわかった。これは偉大な発見であり、毎日その状態を作り出すことは無理でも、この“新しい自分”でいるときにはやはり楽しい気持ちになれた。

そんな中、中学時代の集まりで食事会に参加することとなった。もちろん、顔も髪型もしっかり作りこんで出かけた。名乗るまではさっぱり気がつかない人も多かったし、当時憧れていた人に「全然違う!」と驚かれ、笑顔で言ってもらうことすらもできた。誉め言葉を求めていたわけではなかったけれど、その時はやはり特に嬉しかった。ただ、じわじわと気がついた。

「あれ、この人って私にこんなに対応良かったっけ…?」

「見た目」が変わっただけで、周りからの評価がこんなに違う…

私の容姿が世間的“可愛い”に近づくことで、周りの(食事会の時はその人だけであったけれども)対応も若干、いや確実にいともたやすく変わるのかもしれないと感づいた瞬間だった。

もちろん、容姿の変化に対する私の態度の変化(前よりも明るく自信がついた感じになった)も影響していたかもしれないけど、少なくともその時はそう感じた。

「周りの評価や対応ってこんなに簡単に変わっちゃうの?」
「もし、私が以前のような姿で現れても同じように対応してもらえたのかな?」
私が生きる社会というか世間というのはこの程度のものだったのだなと、何だかおかしくなって、正直周りの目を気にすることがどうでもよくなってしまった。本当に。

そして、私が可愛くしていたいのは、最初から私自身のためだったのだと悟った。

社会の基準から縛り付けるのではなく、私は「自分基準」で楽しむ

それからというものは、若干肉付きの良過ぎる身体や切れ長の目など、かつてのコンプレックスは徐々に大切な個性と捉えられるようになり、自分なりの“可愛い”基準に則ってお洒落を楽しめるようになった。

社会の基準というものは、時に残酷だけれども、同時に全くくだらなくて単純で、気にするに値しないほど素朴なものかもしれない。このことに気がつくことは、見えざる敵におびえ、自分自身を縛り付ける生活からの突破口になりうる。