幼い頃から、ちゃんと自分が“ブス”であることを、私は知っている。

周りに言われたり、男の先輩からの扱いが違ったりするのはもちろんある。だがそれよりも、昔から鏡を見る時になんとなく沸く「なんか違うなぁ」という感情や、みんなで撮った写真を見るとどう見ても一人だけブスであるという事実から知っていった部分が大きい。

人に話したことはないけど、自分の「容姿」が嫌いじゃない

だからといって、自分の容姿が全く嫌いかと問われると、実はそうではないのだ。手鏡を見て「なんか違うなぁ」とは別のところで「美人ではないけど、けっこういいじゃん」と心が浮き立つ。

自分のぱきっとした線も入っていない一重瞼を見て「うん、流行りじゃないけど悪くないじゃん」と思う。髪を染めたあと「このきつい三白眼に合ってて雰囲気あるじゃん。素敵じゃん」と感心する。そういったことはけっこうある。三日に一回ぐらいは、ある。

でも、人にそれを明かしたことはない。ブスがそんなことを言うなんてと、“可哀そうな人”だと思われても心外だし、“思い上がりブス”だと笑われてもつまらない。

そもそも“ブス”が自分の容姿にプラスな感情を抱くのは、なんだか身をわきまえていない感じがする。“身をわきまえていない”というのは、私が最も嫌い、恐れ、それだけは陥らないようにしようとしてきた状態だ。

正直、私はブスだけど「自分の顔が好き」だし、思い上がっていない

なので、私は常に暇さえあれば「整形したーい」と言うようにしている。「二重になりたーい」とも言う。この二つは、SNSでも定期的に発信する。

それから、二重の友達を羨ましがるようにもしている。自分の容姿への自虐も定期的にするようにしている。これらをすることによって「私は自分がブスであるということを理解していますよー、思い上がっていないですよー」とアピールしているのだ。

正直、整形は痛そうだし、手術費は高いし、面倒くさくて嫌だし、二重になんてなっても、ならなくたっていいし(というか一重のほうが好きだし)、誰の顔も大して羨ましくはないのだけれど、ブスがそんなことを言うと“美人”な人たちや“可愛い”人たちから、ひそかに馬鹿にされそうで嫌なのである。

ひそかに馬鹿にされてしまったが最後、私の三日に一度のお楽しみは完全に失われてしまう気がするからだ。最後の“自分への自虐をかかさない”というのは、この“ひそかに”馬鹿にされることへの対策でもある。ひそかに馬鹿にされるのは、大変みじめであるので、絶対に避けたい。“おおっぴらに”馬鹿にされていれば、裏でわざわざ“ひそかに”馬鹿にされたりはしないだろう。

ブスが社会的な位置づけでも、容姿はその人の「持ち物」なのでは…

このような行動で、私は“ブスなのに自分の容姿が嫌いではない自分”をキッチリと守っている。

本当はけっこう面倒くさい。一ブスから言わせてもらうと、“ブス”と“容姿”は別次元のところで語られるべきものなのだ。“ブス”が社会的な位置づけである一方、“容姿”はその人の持ち物である。

だから、社会的な位置づけはブスでも、持ち物である容姿を悪いものだと思っていないというのは全く自然なことである。そして、それは自分の容姿を気に入っている人に、ブスという位置づけが与えられることも自然であるということだ。

これを書き終えて、パソコンをシャットダウンするとき、私の顔がきっとパソコンの真っ暗な画面に映るだろう。そしてそれを見て私は「ブスだけど悪くないな」と思うに違いない。