悲しいニュースを見るたび、誰かを救いたい、生きて欲しいと願う日々
加速するSNSでの誹謗中傷やいじめ。
インターネットが発達したせいか他人と比較して自分の存在価値を見出すことができなかったり、昔から社会全体に憂鬱さのようなものを感じていました。
辛ければ逃げろと言うけれど、いくら探し求めても逃げる場所すら見つけることができなかったり、自分を守るために取った行動までも周りに批判されたり、そもそも辛いことを辛いと言えない環境にいたり。
誰かに理解されたい
誰でも良いから寄り添ってほしい
声に出さなくても心ではそう思う瞬間誰しもあるかと思います。
画面越しに映る悲しいニュースは胸が張り裂けそうなほど苦しくて、他人事とは思えなくて
自死を選ぶ人がいる世の中でどうか生きて欲しい、と誰にも届かない想いを抱いて毎晩眠りつく。
将来、誰かを救う仕事がしたい。
一人でも命を救えるのなら私を使って欲しい。
誰かにとって自分が居場所になったらいい。
毎日そう思っていました。
こんな自分に誰が救える?矛盾を隠して生きてきた私の本音
周りには生きて欲しいと訴えるくせに、鬱を経験してから自分の死を想像することが多くなり、正直他人を救える力は私にはなくてみんなと一緒で毎日が不安で仕方ない。
"あと1日だけ頑張ろう"
せめて今日1日だけ生きようって
それを繰り返していたら
いつか必ず幸せになれると信じて
自分を騙しながら毎日溺れないように必死に息をしてる。
たった21年しか生きてないのに
まだまだ知らない世界があるのに
なにより、本当の別れなんて知らないくせに私を大切にしてくれる家族や友人を身勝手に捨てて何度も頭の中で自分の存在を消す。
そんな軸のブレた人間が誰を救えるんだって
命を軽々しくみている自分が嫌になる。
でも笑ってしまうのは
これだけ生きることが難しくても、いくら消えてしまいたいと思っても、きっといざ余命宣告されたら泣きながら生きたいと願ってしまう。
毎日自分を生かすのに必死で何度も折れそうになるけれど、自分で終わらせるのではなく向こうから終わりを迎えられると生きたいと思ってしまう自分は矛盾してる。
人を救いたい守りたいという気持ちがあるように、それくらい自分を愛せたらいいのにな。
自分からのSOSに気づけなかった私が見つけた自分を救う方法
例え価値のない世界だとしても死ぬ勇気が自分にないのなら、せめて生きる理由を見つけたいそう思いました。
自信をもって生かすことのできない自分の命をどうしたら救えるか、この深い傷はどうしたら埋められるのか、考え出た答えが"共存"でした。
人から言われる"死んではいけない、生きなさい"ほど
辛いものはなくて、今まで自分の心が弱ってる時こそ人に相談することが出来なかった。
自ら助けを求めるのではなく
"誰でもいいから気づいてほしい"って無茶なことを思っていた。
でもきっと、みんなもそうなんだと思う。
《辛い 寂しい 消えたい》そんな一言で私たちが持ってる傷は表しきれないけれどこの言葉の裏には《誰か私を救って欲しい、気づいてほしい》って生きる希望がほしくて誰かに投げかけてるんだと思う。
死生観について話す時、感情的になってしまうのは他人を救いたいというその"他人"の中に自分自身も含まれていて、私自身を救いたいと思っていたからなのかもしれない。
まずは自分が強くならなくては、人は救えないと思っていたけれど、そうじゃない。
私が望んでいるのは
一方的に励ます生き方じゃなく、
一人じゃないって思えるよう互いに寄り添い合う
そんな生き方がしたい。
辛さを他人と比較する必要もなければ、経験していない辛さに軽々しく共感もできない。
でも深い傷を背負いながらも、精一杯生きていく私たちだからこそ、互いを励まし合うことはきっと出来る。
完璧じゃなくても誰しもその力は持ってる。そう信じたい。
前に進める人々で溢れるように、
悲しい夜が明けて生きていることを感じられるように、
誰かに繋いでいく為に今日も必死に生きていく。