私が変えたいことは、他人の目を気にすることだ。確かに、他人の目や評価を気にすることは、“自分を磨き上げる”という意味で考えれば、悪いことだけではない。

しかし、それは自分の個性を失うことにもつながりかねない。

自信を失った私は、劣等感から「他人の目」を気にするようになった

他人から高評価をもらったとしても優越感に浸りすぎて、かえって自分を見失ってしまうことがある。一方、低評価ばかりでも劣等感でいっぱいになり自信を失うことで、個性を殺してしまうかもしれないからだ。

冒頭でも述べたように、私は“他人の目”を気にしてしまう。例えば「このグループの友達とは少し合わないな」と思ったとしても、その人たちにとって嫌われるような態度や発言をすれば、絶対に嫌われてしまうことが分かっているので、わざと人と合わせて同じような歩幅で生きているように工作したことがあった。

それは以前、人間関係で失敗した過去があるから。それと同じような友達や人付き合いとして、関係を壊したくなかったからだ。過去に自信を失った私は劣等感に襲われ、人間関係において“他人の目”を気にするようになった。

一方、私は何か人よりも「優れている」と言われたり、自分が先生や友達から高評価をもらって自信に満ち溢れた時、人が変わったように優越感に浸ってしまうという一面もある。

それは、きっと人によって様々で、歌の上手さや語学力の高さ、運動能力の高さやスタイルの良さなどが挙げられるだろうか。

人の数だけの特徴があるのは当たり前で、一人として同じ人はいない

しかし、ふと一人になって自分のことを考える時間ができると、自然と胸が締め付けられるような気持ちになることがある。今まで挙げてきたことは、全部自分らしさがなくて、何か人と違う道に逸れることや、人と同じでないことがまるで異常であるかのように感じる時がある。

そんな時、自分という存在のメリットや特徴、魅力が失われているようにも思う。しかし、そう思うのは、“人と違うことが異常である”というような流れや、雰囲気を社会自体が作り出しているからだと考えている。

そもそも、世界にはたくさんの人が生きていて、その人の数だけの特徴があるのは当たり前のことで、一人として同じ人はいない。だから、人と違うことは何ら異常なことではなくて、むしろ普通のことなのだ。

私の経験のように、他人からの評価がもたらす影響は、個性を殺すことだけではなく、時に形的には見えない武器ともなり得る。それはつまり、他人の良さをも殺すことになりかねない。優越感と劣等感は常に隣り合わせのものだからこそ、私だけに限らず、人は“他人の目”を気にして生きてしまう。

だが、どうだろう。こんなにもストレスで、疲れることはあるだろうか。こんなに生きている中で、不自由に感じることがあるだろうか。もし、そんな思いを一度でも誰もが経験したことがあると感じるのならば、自分を自分で束縛しないこと。また、自分も相手を否定したり、評価したりしないことが大切である。

自分の「意見」は大切だけど、偏見を持つのは間違っている

もちろん、自分の意見を持つことはいうまでもなく、自分が思っている以上に大切にすべき。でも「あの人は太っているからおかしい」「あの人は人とはずいぶん変わった服を着ているから変な人だ」といった偏見を持つことは間違っている。これらが、私が私に与えている課題であり、変えたいことだ。

自分の意見をしっかりと主張することもそう。自分に対しても、人に対しても、素直に受け入れ、その人が作り出している世界を一人の観客として認め合っていくことが私たちには求められている。

簡単にはいかなくても、まずは小さな一歩を踏み出すことから始めていきたい。