みんな幸せになってほしい。
世界中の全ての人なんて言わないから、せめて肉眼で見える範囲の友達くらいは幸せにしたい。
それはどんな方法であっても構わない。
勝手に幸せになれるならそれでいいし、もし無理なら私がその実現のために多少の時間と労力と、時にはお金を割いて良いとも思う。

そうしていることが私の幸せでもある。

困っている人を助ける。
自己犠牲かと問われれば完全に否定することはできないが、私はそれをやっているという認識でいない。
私が人を助けるとき、そこには常に独善的な"愛情"、または"気まぐれ"がある。

楽しいからやっている。
やりたいからやっている。
見返りは無くても構わない。
やりたくなければやらない。
といった具合。気楽。

そして、私にはまた「その人の中に残りたい」というある種の生殖本能のようなものもある。
気に入った誰かの記憶に強く残りたいのだ。
私があなたの人生に登場したことを、できれば死ぬまで覚えていてほしい。
あなたの人生を良い方に変えた者として、思い出になりたい。
忘れないでほしい。
たまに思い出してほしい。

他者に影響を与えたという事実が未来永劫残り続けてほしい。
見返りは無くても構わないと言ったのはこれが理由だ。
助けた時点で記憶の種は蒔けているので、目標は達成、報酬は既に受け取っている。

これはまあまあ自己中心的な動機である。
「恋愛感情は性欲の化身なのか」という問題と非常によく似ている。
人々の心に、今ここにいる自分の分身をできるだけ多く残していきたい。
記憶に与える生殖本能。性的でないセックスがあるのだとしたら、私の人助けがそれだ。
このように利己・エゴによって動く私は、自己犠牲の人と表現するには足りないのである。

私は、自己犠牲を悪とみなした

私の母は絵に描いたような自己犠牲の人だった。

着飾ったり遊んだりしたかった自覚があったかは分からないが、自分のことは二の次で、いつも私たち四人兄弟の世話をしていた。
外出前の日焼け止めを塗る時間さえ惜しんで私たちに尽くした。
何をするにも手を抜かず、手をかけることに半ば執着し、ご飯も毎食手作りだった。
そうしている母はどこか満たされたような顔をする。母が笑うと私はホッとした。
しかし同時に、何か肩甲骨の裏側でヒヤッとした心地がして、それ以上の感想を持てなかった。

直接的に言えば、身をすり減らして他者に与え続けないと自分の価値が見出せなかったのだろう。大きくなって強い自我を持った私は、それが明確に気に入らなくなった。
そして、自己犠牲を悪とみなした。

「あなたのことを愛していて大切に思っている」と言うのなら、自己満足の愛情仕草なんていらないから私自身を見てほしかった。
自己満足なら自己満足でもいいからそれを自覚してほしかった。

「自分が我慢して他人に与えるんじゃ本当の笑顔になんてなれない」
「誰のことも笑顔にできない」
「まずは自分が心から楽しくなるしかない。他人はその後だろう」
自分が楽しいと感じること以外はやらないと決めた。
半ば過剰なまでにそうすることで、母と同じ"過ち"をおかさずに済むと思っていた。
大人になった私はそうやって生きてきた。
はずだった。

人をひとりでは立てなくする天才?

現状だが、残念ながらそうではない。

気が付けば私は、いつもその時々で最も慕っている誰かの顔色を窺い、恐れ、怯え、その人にとって最も快適な姿であるように努めていた。
見た目も、考え方も、作るものも、その人が良いと言ったものに変えてきた。
時には己の意思に反したが、何故かそれを嫌と感じることができず、まるで自分も心底そう思っているかのように付き従った。
何でも思い通りになるのが相手にとって段々と当たり前になっていき、絶対的な力関係ができ、自然と軽んじられた。

そうして、その異常な状況とただれた心に気付いて背筋をシャンと正すのは総じて、すっかり変わってしまったその人に愛想を尽かしてポイと捨ててしまう頃になる。
私に全体重を乗せることにすっかり慣れたその人たちは皆、急に支えを失って尻餅をつき、出会う以前よりも萎び、心を病んだ。

それを何度か繰り返した。

私は、人をひとりでは立てない状態にしては、手に負えなくなって投げ出す天才だった。
「みんなを幸せにしたい。みんな幸せになってほしい」
しかし、結果は前述の通りである。

自己犠牲の甘い罠

「私は自己犠牲の人間ではない」
「人助けは己の楽しみのため。趣味・道楽である」
そう言い聞かせている。

実際は自己犠牲の呪いに飲み込まれ、理解していても抜け出せない。
いつになれば人の顔色を窺う癖を直し、自分が承認されるためのあらゆる仕草をやめられるのだろう。
共依存の形式から逃れ、世界一幸せにしたい人を奈落の底に引きずり落とすのをやめられるのだろう。

自己犠牲は美しいものではない。
自分で自分を肯定できない者が、どうしてもハマって抜け出せない甘い罠だ。
一見して、他人のためという皮を被っているので足を踏み入れやすいが、実態は利己の中の利己。その構造に本人が気付いていないほど質が悪い。相手をダメにしてしまう。
自己犠牲は誰も得をしない。

それでも私は人を幸せにしたい

それでもやっぱり好きな人を幸せにしたいし、みんなには幸せになってほしい。
これは揺るぎない本当の気持ちで、仮に誰の記憶にも残らなかったとしてもそうなってほしいと願っている。

元気が無ければ力を分けたい。
時には泣いたりしても、いつでも笑顔になれる状態であってほしい。
私にできることなら全力で助けたい。
そしてできれば私のことを、生きている最後の時間まで忘れないでいてほしい。

相反するさまざまな思いはどれも間違いじゃない。
人には一貫性がない。
そんなどうしようもない部分も含めて、私は私が、そして人が大好きで仕方ない。