ずっと、“普通”に憧れていた。
“世間体”を気にして生きてきた。
誰よりも「普通」になりたかった。でも、私はなれなかった…
私は、ただ“普通”になりたかったのだ。それは遠く、小学生の頃から。
たとえば、背の順で整列をする時のこと。私の通っていた小学校と中学校では、決まって背の順で整列をした。そうすると、クラスの女子の中で一番背の高い私は、必然的に一番後ろだ。人数が奇数で、かつ2列で並ぼうものなら、私は最後尾で一人になる。そんな時は、私の視界に入る全員のことがうらやましかった(みんな隣がいていいなぁ)。それに、当時の私は、“女の子は背が低いほうがかわいい”という価値観を持っていた。だから私にとって、背が高いことは全くもって歓迎できることではなかった。
また、体育の授業の時。走るのも遅い、跳び箱も跳べない。私に運動をさせると、見事にいつも学年でビリか、ビリから2番目だった。「とびきりのスポーツ万能じゃなくていいから、せめて人並みにできればなぁ」と思わずにはいられなかった。
音楽の授業でもそう。音痴で、音程を外してばかりいるのが恥ずかしいから、口パクを多用するようになった。これだけだったら、シンプルに劣等感を抱いていたかもしれない。
でも、勉強は学年で1、2を争うくらいによくできたのだ。当時の私は、子どもながらに「目立たないほうが悪口を言われないし、いじめられないから安全だ」と理解をしていたので、ガリ勉でない雰囲気を演出することに必死だった。
ただ普通でありさえすれば…。そうすれば、背の順の整列で一人ぼっちになることも、運動音痴で恥ずかしい思いをすることも、ガリ勉と思われないために余計な神経を使うこともしなくていいのに。だから私の願いはたった一つ、普通でありたい・人並みでありたい、それだけだった。
それでもやがて、私は悟った。どうやら自分が普通になるのは難しいようだ。人並みにできないことが多すぎる。せめて勉強だけは負けたくないと(ガリ勉に見えないようには気をつけながら)、勉強に励んだ。
誰よりも“普通”を欲した私は、結局、普通になることを諦めるしかなかった。
大学生になった私は「世間のイメージ」を気にするようになった
大学生になってからは、“世間のイメージ”を気にするようになった。いわゆる大企業だとか、エリートだとかいわれる会社で働くことこそが、世間でいう“成功”なのだと思い、それがそのまま私の望みとなった。
でも、なんだかうまくはいかなかった。“自分らしく働くこと”や、“自分のよさを活かすこと”を尊重すると、どうしてもそういった会社からは離れてしまうのだ。「あんな会社で働きたい」と頭では思うのだが、心ではどうしても“その会社で働く自分”に居心地の悪さを感じる。
そんな矛盾する自分の思いをコンプレックスに感じた。なぜ、私は世間体と自分らしさを両立させることができないのか。“世間体”のいい会社に適応できる人たちが、心底うらやましかった。
それでもやがて、私は悟った。どうやら私が本当に欲しいものは、“世間体”ではないようだ。少しずつ時間をかけて、“自分らしく働ける会社”のほうに自分の望みをシフトさせた。
誰よりもいわゆる“エリート”に憧れた私は、でも、それでは自分は幸せになれないのだと知った。
私は時間をかけて、ありのままの「自分」を受け止めることを学んだ
あれから、いくらかの年月が流れた。今の私は、“女の子は背が低いほうがかわいい”という価値観しか持ち合わせていなかったあの頃の私に「背が高くてすらっとしているあなたもめちゃくちゃ素敵だよ」と教えてあげたい。そして「運動ができる・できないで、順位付けをされる機会なんて、大人になったらなくなったよ」と教えてあげたい。それでも「あなたが唯一の強みを伸ばそうと力を入れた勉強は、今の私を大いに支えているよ」と褒めてあげたい。
それだけじゃない。“世間のイメージ”を気にしてばかりいたあの頃の私へ。それによって回り道をしたかもしれない。だけどその分、見える世界は広がったよ。そしてなにより、今の私は納得して、自分らしい生き方を選択できているよ。
私は時間をかけて、ありのままの自分を受け止めることを学んだ。そして、手放した思考の数だけ、楽になった。自分なりの幸せにも、少しずつ、近づいているのだと願いたい。
今までの自分に、感謝を込めて。