推しが結婚した。

Twitterで珍しくトレンド入りしていたので、コロナに感染したのではないかと焦って確認したら、結婚だった。

私は「推し」のことが大好きだ。でも、結婚は衝撃だった…

背後から鈍器で思いっきり殴られたような衝撃だった。ネット記事に目を通していくと、その衝撃が胸から茨が生えてきたような、チクチクとした感覚に変わって読み切ることができない。

とりあえずTwitterに戻り、タイムラインをただただスクロールする。反応は十人十色だったが、どれも私の頭に入ってこない。推しにとってめでたい日なんだから、私も何か呟かなきゃ。考えた末、ここは大人になって「おめでとう」の輪に入ろうと、推し専用のアカウントの投稿画面を開いた。

結婚の「け」はさすがにまだ打てないので、おめでとうの「お」を打ってみたら、泣きそうになった。私は泣くことが大嫌いだ。眠れなくなるから。それでも涙が引っ込まず、結局スマホを閉じて、母にプレゼントする予定だったワインをひっかけて寝落ちした。翌日から今日に至るまで、茨は枯れるどころか青々とのびて、私の心に絡みついている。

私は推しのことが、“推し”として好きだ。圧倒的な世界観、見る者すべてを魅了するライブパフォーマンス、インタビュー等を通して感じる仕事への真摯な姿勢、そしてこちらが恐縮してしまう程のファンへの優しさや気遣い。推しが大好きだ。尊い存在だ。

推しとファンは対等で、まっとうな「人間関係」のもと成立している

ただ、推しにも人間としての営み、人権、人生があることを十分自覚している。だから四六時中推しでいなくていいと思っている。疲れたら休んでほしいし、辛かったら泣いてスッキリしてほしい。お腹が空いたらたくさん食べて、あったかくしてしっかり寝てほしい。好きな人とずっと一緒にいたかったら、そうしてください。あなたが幸せならそれでいい。

以前から恋人がいるとの噂があったため、心の準備はしていたつもりだった。年齢的にも残りの人生を丁寧に考えたくなるだろうし、推しの人生だ。何があっても動じることなく、応援すると決めていたつもりだった。

しかし、現実世界の自分はどうしようもないくらい脆い。“結婚”の二文字が実際にぶつけられたら、ものの見事に玉砕された。めちゃめちゃ動揺したし、変な声も出た。泣きながら、3か月禁酒した成果を台無しにするくらいしこたま呑んだ。そうでもしなければ、その日を終えることができなかった。

日が経ち、若干冷静になってはいる。推しとファンは対等で、まっとうな人間関係のもと成立している。私たちは依存関係でもないし、お互いの人生は地続きでもない。そういう自覚があるからこそ、推し活を長年楽しめている。お互いのライフステージが変わってもこの関係性は続けられると信じている。

なぜ、私は「結婚おめでとう」の一言すら呟けないのだろうか…

ではなぜ、サブスクのプレイリストで推しの曲が流れた瞬間スキップするのだろうか。スマホの待ち受けを推しから、猫の画像に変えてしまったのだろうか。「結婚おめでとう」の一言すら呟けないのだろうか。

私はファン失格か。私は恋していたのか。推しと、どこかで繋がれるなんて馬鹿なことを考えていたのか。いや、違う。私は推しにとって特別な存在になりたいわけではない。

私は寂しかった。

私は、私は、私は。こうやって何もかもが一方通行のまま、推しの存在が遠く離れて、歪められている気すらしてしまう。それくらい、やっぱり推しの結婚はショックだった。そして、私は孤独だった。自分が長年推し活に傾倒してきた理由と、好きだけどショックというモヤモヤの正体をようやく見つけられた。ずっと私の支えになってくれたうえに、現実に向き合うきっかけまで与えてくれた推し、やっぱ最高だな。

多様で複雑で混沌とした日々のなか、家族や友人や恋人以外に特別だと思える存在に出会えたことは、私の人生にとって貴重な財産だ。今はまだ「おめでとう」は言えないけれど、あなたの幸せを願っているし、ライブも新譜も楽しみにしてる。