私は、容姿を褒められたい。
「容姿を褒めるのは不躾だ」「パーソナルな話題に踏み込むのは無礼だ」「海外で容姿を褒めるのはタブーなんだから」と、昨今飛び交う意見を否定するわけではないが、私は容姿を褒められたいのだ。それは、もうものすごく。
貶されたことがあるから、払拭すべく「誉め言葉」を求めてしまう
生まれ持った顔を「かわいいね」と褒めてくれれば、魔法のようにキラキラと輝かせてくれて、シャキッと前を向いて堂々と歩ける気がする。そういう魔法の言葉を一つ一つ拾い上げて自信に変えて生きていくのだ。
「そんなの自分で『私はかわいい!』と魔法をかければ良いじゃん」「他人の意見なんて無視、自分が思い込めばそれでいいじゃん」と言われたことがある。
もちろんわかる。というか、なれるものならそうなりたい。でも、他人からかけられた呪いを自分で解くのは難しい。それに今までかけられてきた呪いの言葉の威力は、魔法の言葉よりも強い。たった一度の「ブス」で拾ってきた魔法の言葉は、バラバラとこぼれ落ちて代わりにずしんと重い鉛だけが残るのだ。
容姿を褒めも貶しもしなければいいのに。そうだね、まだどちらも経験していない人は、それが良いのかもしれない。でも、“貶し”を一度でも受けてしまったら、それを払拭するための“褒め”をどうしても求めてしまう。「かわいい」「綺麗」「美人」という褒めの言葉が、欲しくて欲しくて堪らなくなる。他人と比べたときの評価が欲しい訳じゃない。ただ一言でいいから、私を褒めて欲しい。
男の子からブスと言われたけど、女の子は「容姿」に関してもっと残酷
“私を”と書いたように自分を褒めてほしいと、拘るのにも呪いの影響がある。容姿を貶す人たちに性差はない。それは大前提だが、私の場合男性と女性による違いを感じ、それが呪いに拍車を掛けた。
中高生の時、男性から告白をされて断ったり、こちらが正義感故に注意したりすると「ブス」と言われた。この呪いも割と根深かったが、年を経た今ようやく解けた。自分が嫌な思いをしたから、嫌な思いを返したいという理不尽さに馬鹿らしいと思えるようになったからだ。
女性からの“貶し”は、大学生以降だった。最初に仲良くなった子が、いわゆるモデル体型で、顔も某アイドルに似ていた。私は話が合うなと思い一緒にいた。それを見た別の友人たちから「美女と野獣」と言われて、表情はにこやかに保ちながら心で泣いたのを今も覚えている。それが1回だけではなかった。別の子からも言われた。女の子って残酷だ。
容姿に優劣をつけて、自分よりも優れていると見做せば、その横にいる人なんて蔑ろ。いや、多分蔑ろにしているという自覚さえもない。「優れている方を褒めなければ!」という意識しか持っておらず、その場に比較対象がいればより褒めが明確になる。そんな感覚だろう。
比較するのではなく、私の「かわいいところ」褒めてください
比較をされた経験がないわけではない。例えば、偏差値や長距離走のタイムのように数値化され、逆転が可能な比較だ。容姿による比較、そして劣っているというレッテルをこうも簡単にぺたりと貼られたのは初めてだった。今までも隠れて比較されていたかもしれないが、そっちの方がよっぽどマシだと感じた。どちらも嫌だが、悪いことだと自覚して隠れてくれている方がマシだと感じるほどに、悪意のない、他人との比較による貶しは心をどんどん沈めた。
多分、私はまだ対応し切れていないのだ、令和の時代に。平成の貶しを持ち越して、令和になった今でも褒めを求める。だって、それはそうだ。貶された経験の分褒められたい。その気持ちが捨て切れない。今まで散々貶されたのに、今度は褒めない方がいい? そんなことある? 褒められたいよ。比較じゃなくて、私のかわいいところ、綺麗なところ、素敵なところ。見つけてくれたなら褒めてください。何度でも褒めてください。
かけられた呪いが解け切らない。呪いの解き方がわからない。魔法の言葉を求めて生きていくしかないのだろうか。