どうして「仕方ない」で思考停止する人が多いのだろう。
30年弱生きてきた私が、日本社会に思ったことである。
みんなどうして、簡単に「仕方ない」と言えるのだろう?
数年前、勤めている会社の先輩が異動になった。私はその先輩ととても仲が良かったし、仕事の先輩として尊敬をしていた。転居を伴う異動で、その先輩と仕事をすることはもうないのかもしれない。「これからもがんばってね」と、私に言った先輩の目は、どことなく悲しげであった。
なぜならその先輩は、社内結婚して1年未満の新婚さんで、家を建てたばかりだったからだ。奥さんに辞令は出なかったので、単身赴任という形になる。愛する人と離れ離れになり、せっかく建てた新築の家にも住めない。悲しげな眼をするのは当然だった。私は奥さんとも仲が良かったのだが、奥さんも新居に夫と住めないことが悲しそうだった。
共感力の高い私だからかもしれない。その先輩と仲が良かったからかもしれない。すごく悲しくなって、家で泣いてしまった。どうして会社は、一緒に住ませてあげないのだろう。結婚式で「これから同じ家で住める」と言って、すごく幸せそうだった先輩を思い出す。多額のローンを組んで、奥さんと一緒に住むために家を建てたのに。新婚の時くらい、考慮してあげればいいのに。いつか子供を産んで一緒に住もうと思った時、奥さんは仕事を辞めてしまうのかな。こんなことしてるから、女性の社会進出も進まないし男女の賃金格差も狭まらないんじゃないんかな。
そう思った私は、愚痴っぽく、社内外の仲のいい人達に不満をこぼしてみた。返ってきた回答はみんな「仕方ない、それがサラリーマンだから」だった。
「仕方ない」って、どういうことなのだろう。辞書を引いてみると、“なす術がないこと”と書いてある。本当に、なす術がないのだろうか。他の国や、日本でも先進的な会社は自分の意思に反する転居を伴う異動はないし、単身赴任もないので、物理的に不可能なことではないはず。
なのに、みんなどうして、簡単に「仕方ない」と言えるのだろう。昔は単身赴任が当たり前の世の中だったのかもしれないが、令和の時代はコロナの影響もありテレワークが普及し、単身赴任を無くそうという会社もあるのに。もうキャリアや仕事を理由に、プライベートを犠牲にする時代ではないのに。多様な働き方が認められつつある時代なのに。
「仕方ない」は様々な社会問題に対して、思考停止し解決を諦める事
おそらく私より上の世代の人たちは、私たちのような若い世代が楽をすることが許せないのかもしれない。自分たちがしてきた苦労を正当化し「あの時の経験は自分の人生にとって必要なものだった」と言いたいがために、下の世代の人たちに「仕方ない」という言葉を使って、私たちにも同じような苦労をさせたいのかもしれない。その苦労が、時代遅れのもので、たとえしなくてもいい苦労で、若い世代にとって意味のないと思えるものだったとしても。
でも、私は「仕方ない」という言葉が大嫌いである。「仕方ない」は、日本や世界にはびこる様々な社会問題に対して、思考停止し、解決を諦める事を意味する。
女性が男性と比べて、外見で判断されがちなことも「仕方ない、それが女性として生きるということだから」。日本で同性婚が認められないことも「仕方ない、まだまだ日本はジェンダー後進国だから」。違法な長時間労働やサービス残業を強いられても「仕方ない、うちはそういう会社だから」。異動によって愛する人と住めなくなっても「仕方ない、それがサラリーマンだから」。
私が反論すれば、続く言葉は「まだまだ青いね~」「君も年を重ねれば分かるよ」なのだろうか。はたまた、「最近の若者は義務を果たさず権利ばかり主張するなあ」「俺の若い頃はもっと大変だったんだぞ」なのだろうか。
外見で判断されて、苦しんでいる女性はいっぱいいるのに? 同性婚が出来なくて、悲しい人もいっぱいいるのに? 長時間労働で、過労死する人がいるのに? 愛する人と一緒に住めなくて、寂しい人もいるのに?
「仕方ない」に違和感を持つ人々が増え、少しずつ変わってほしい
海外では自分の権利を侵されたと感じた時、日本と比べてデモをすることが多い。それが時には、暴動に発展してしまうほどに。日本人がデモなどの手段をあまり取らず、自分の意見を主張することなく「仕方ない」で済ませてしまうのは、争いを好まず、調和を重んじる日本人の気質そのものなのかもしれない。
又は先生のいうことを黙って聞いていればいいという、日本型教育の弊害なのかもしれない。それこそ「仕方ない」ことなのかもしれない。私みたいな小娘が一人吠えたところで、世の中は変わらないのかもしれない。
でも、何かに違和感を感じた時、「仕方ない」で終わらせるのではなく、少しでも物事が良い方向に進むような策を考えるのがスマートなのではないだろうか。私はこの日本の「仕方ない」で思考停止する風潮を変えたい。豆腐メンタルな私は、会社で意思決定をする立場の人々に対して、自分の考えを強く言う勇気はなかった。国会議員でさえ忖度するこの世の中で、私が忖度せず会社で自分の考えを自由に表現することは難しい。
でも、私には“書く”ことが残っている。会社のお偉いさんに自分の考えを伝えられなくても、世の中の不特定多数に向けて「仕方ない」に一石を投じることが出来る。
私のエッセイが一人でも多くの人の目に留まり、共感してもらえたら。「仕方ない」に違和感を持つ人々が増え、そこから行動できる人が増えていったら。「仕方ない」という風潮も、少しは変わるのかもしれない。
私は日本の「仕方ない」で思考停止する風潮を変えるために、これからもキーボードをたたき続ける。