子どもの頃、私は無敵だった。

あの頃は、さほど頑張らずとも大抵のことは人並みかそれ以上にできた。
中学時代の話をすると、テストでは200人強いた学年でほとんどトップ10を保っていたから、「水無月さん、頭よくてすごい!」と周りから口をそろえて言われたし、校内の合唱コンクールでは毎回クラスでピアノの伴奏を担当して、最優秀伴奏者賞も一度獲ったことがあったりしたから、クラスメイトからは「ピアノ弾けてすごい!」と口々に言われた。
そうやって様々な「すごい」を各方面から浴び続けて十五年余り、私の中でアイデンティティが徐々に固まっていく。
私って、すごいんだな。

トップクラスの高校入学後、無敵だったアイデンティティが崩れ始めた

ただ、県内トップクラスの高校に当然のように入学したあたりから、徐々に雲行きが怪しくなった。
その高校に集まってくるのは、各中学の、いろんなことに秀でた猛者たちだ。一位たちが集まれば、当然、かつて一位だった人も二位、三位と立ち位置が変わっていく。
それは私も例外ではなく、あれだけ褒められた学力では、校内偏差値50をひた走ることとなり、ピアノがうまい人なんてもっといたから、合唱コンクールの伴奏者選びのオーディションにはあっさり負けた。
こうして、大して「すごい」と言われない三年間が過ぎていった。

やがて、ステージは大学、社会人と進む。その過程で、様々なことに長けた人にたくさん出会った。うまくいかないこともたくさん経験した。
そして、二十三歳、もやもやとしていたものはついに確信を得る。
あ、私、別にすごくないんだな。
その確信は、私からアイデンティティを奪い、代わりに、いびつで醜いプライドを完成させた。

優越から引っ張り出された世界。抜け出したいのにその兆しは見えない

あのまま「すごい人」でいたかった。
何でもさらっとこなせて、才能があって、誰にも負けない、そんな「すごい人」。
「すごい」と言われるのは気持ちがよかった。自分という人間を肯定され、価値ある人間になれたような、そんな気分になった。
私は他の人より優れているのだ、特別なのだと、優越感に浸っていられる。

ただ、ずっとそんな優越の中にいたから、他の人と大して変わらないとか、自分は特別ではないとか、そういう事実を突きつけられ、浸っていた優越から引っ張り出されたとき、素直に受け入れられない。
上から見ていた世界に急に放り込まれて、さあこれからそこで生活してねと言われても、生まれてからの二十数年でできあがった、膨れ上がったプライドが邪魔をする。
違う、私のいるべき場所はここじゃない。
どんなにそう思っても、ここから抜け出せる兆しは全く見えない。

ここまで読んで、じゃあそんなに「すごい人」でいたいなら、そうなれるように努力すればいいじゃん、と思う人は少なからずいるだろう。なんなら私も思う。
そんなもの、できるならとっくにしている。いや、できるような人間だったら、ここまでこじらせていない。

「すごい人」を諦めるのか、そうなれるべく自分に発破をかけるのか

私は努力というものをした記憶がない。
先述のとおり、大抵のことは努力しなくても人並みかそれ以上にできてきた。つまり、何かを達成するまで必死に頑張るということをせずに生きてきてしまったのだ。
勿論、大学受験や就活まではさすがに通用せず、自分の思うような結果にはならなかった。それでも、なんだかんだ大失敗にはならなかったから、結局必要以上の向上心が生まれず、努力しようと思えなかった。
そんな、努力という苦しみに慣れていない人間が、今さらその苦しさに自ら飛び込もうと思えるだろうか。
このままでは駄目だと強く思うけれども、努力なんて面倒なことはしたくないと思ってしまうから、いまだに何の行動も起こせずにいる。

もう嫌だ。もうそろそろ、矛盾が発するこの苦しさから抜け出したい。

「すごい人」という理想を目指して自分に発破をかけるか、それとも自分は別に特別な存在ではないと受け入れて「すごい人」を諦めるか、果たしてどちらがこの先幸せなのだろう。
最近、よくそんなことを考える。
どちらの道を歩むにしても、実行するには精神的な痛みが伴う。肥大したプライドを抱えてしまった今の私に、痛みを感じずに生きる方法などない。
それなのに、この期に及んで痛みから逃げ続けている。そうやって逃げ続けているから、悩んで余計に痛みが増して、日に日に生き苦しくなっていく。

いい加減自分と向き合わないといけないのかもしれない。