鍋はみんなで囲むもの
それが世間でいう鍋の掟らしい。
しかし私にとって鍋は母とふたり、向き合って食べるものだった。

栄養豊富で時短料理である鍋。秋冬には母と二人でよく食べた

小学三年生から母とふたりきりの生活が始まり、「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」が私の担当、「いってきます」と「ただいま」が母の担当になった。
母は毎日、仕事終わりに電話をよこして「夕飯何がいい?」と尋ねるのだが、秋冬になると「今日鍋にする?」に変わる。

鍋はパワーフードだ。
味の種類が豊富で飽きが来ないし、野菜・お肉・〆には米や麺と栄養満点。
水分不足になる心配もない。
加えてお腹を空かせた私を待たせないための時短料理でもあった。
だから母は鍋を重宝していたのだと大人になった今、気づく。

鍋の中でも母と私はキムチ鍋が特段に好きだった。
一口目、汁をごくりと飲むと温泉に浸かった時のような息がつい漏れてしまう。
食道を伝う熱はじんわりと広がり、悴んだ指先に血色を蘇らせる。
豚肉のうま味が染み出した汁をこれでもかと吸ったくたくたの白菜もたまらない。
鼻にかいた汗を拭うのも忘れ、熱々のお豆腐を頬張る母を見るのも一つの楽しみだ。
そのたびに私は、誰も盗まないのだから焦らないで食べればいいのに、と親みたいなことを言ったりして。

キムチ鍋が私たちをか細く繋ぎとめてくれた

高学年になると私が台所に立つ日も増えた。
私は私で簡単に作れる鍋に頼ってばかり。
我が家の食卓には相撲部屋並みに土鍋が登場した。
おでこのニキビを気にしたり、母に口答えするようになったのもこの頃からだ。
一方、母は生活のためにせっせと働き、親離れ間近の娘との閉鎖的な日常を繰り返した。
母も母で年頃だったのだ。
私たちは時間に急かされ、母と娘から否応なく大人と大人の関係に変わろうとしていた。
仲人不在の衝突を伴いながら。

しかし鍋をしながら喧嘩を続けるのは難しい。
お互いつんとそっぽを向いたまま鍋を突きあうのは妙な光景でくすぐったい。
だからどちらともなく「よそおうか?」「白菜多めで」「〆、雑炊?うどん?」とぽつりぽつり会話が生まれ、いつの間にかぺちゃくちゃとお喋りをしている。
不思議なもので体が温まれば心もほぐれてゆく。
こうしてキムチ鍋が私たちをか細く繋ぎとめてくれた。
いつでもふたりの間にあるのは真っ赤に煮えたぎるキムチ鍋。
通称、愛のマグマ鍋。
母はそう呼んでいた。
私はどちらかというと地獄にある血風呂をイメージしたのだが、母の目には愛が沸騰するように映ったらしい。

引っ越してから初めての冬が来て、私は久しぶりにキムチ鍋を作った

大学生になった私は親元を離れ、一人暮らしを始めた。
自分のためだけに作る料理は作り甲斐がない。
食事は作業と化し、栄養や彩りも疎かになる。
誰かから鏡に自分の姿を映して食事を取ると幸福度が増すと教えてもらい実践したこともあるが、虚しさすらアホらしくなった。

そして引っ越してから初めての冬が来て、私は久しぶりにキムチ鍋を作った。
長年の生活で、タートルネックをタンスの奥から引っ張り出す頃に、キムチ鍋が恋しくなる体に組み替えられているのだ。
といっても雪平鍋だから赤く染まったお味噌汁のようで風情のふの字もなければ、美味しい!美味しい!と食べてくれる母の姿もない。

私は急に母の声が聞きたくなった。
気がつくとiPhoneが母を呼び出している。
しかし何を話せばいいかまるでわからない。

「今度そっち帰るから愛のマグマ鍋しよ」

こんなエッセーを書いていると仲睦まじい親子に映るかもしれないがそれは半分間違いだ。
確かに母はいい人の時期もある。
そして悪い人の時期もある。
母がくれた優しさは私にとって本物だけど、DV加害者と変わらない愛情表現と言う人もいた。
だから「ありがとう」を言おうとするとみみずみたいな小さな怪物が古傷から湧いてくるし、「大好き」を言えばかつての沼のような共依存に後戻りしそうだ。
よく聞く「迷惑ばっかりかけてごめん」なんて嫌味以外では絶対に言えない。
母こそ私に謝ってくれよ、と昔の出来事を掘り起こして責めてしまいそうになる。
だからといって「大嫌い」と言うには母の悲しい顔に耐えられそうにない。

母に伝えたいこと……なんだろう、適切な言葉が浮かんでこない。
頭をフル回転させながら、いっそのこと母よ呼び出し音に出ないでくれ、とさえ願った。

母は3コール目で出た。
「今度そっち帰るから愛のマグマ鍋しよ」
私の口から咄嗟に出た言葉だった。
実に見事な母に伝えたい、伝えられる絶妙なラインである。
返事はもちろんyesだ。

母の知っている愛は火傷するほど熱くて辛くて、それでももう一口もう一口と欲してしまうものなのだろう。
一緒に暮らしていた頃のように毎日はいただけないけれど、一冬に一回くらいはそういう愛を食べてもいいかな。