最近、ルッキズムという言葉がインターネット上を駆け回っている。
そして私は、正直に告白すると、ルッキズムの奴隷である。
例えば、友達と話していて男の人の名前が挙がると「その人ってイケメン?」などと無邪気に尋ねてしまう。
だけど言葉に発した途端、どうしようもなく後悔の波が押し寄せる。
友達は少しの間を置き「かっこいいかどうかは見る人の好みによるからなぁ」と眉をわずかに下げ、困ったように笑うのだ。

他人の容姿を身勝手に判断するのはやめたいのに…

私はここで2つの罪を犯している。
ひとつは、人を外見至上主義、見た目の良し悪しだけでジャッジしようとしたこと。
もうひとつは、大切な友人に他人の容姿を、広く一般に信じられている美醜の概念に当てはめるよう強要したことだ。

大事な人たちの呆れたような困ったような顔を見るたび「もうこんな風に他人の容姿を身勝手に判断するのも、他者を無理やりルッキズムの文脈に連れ出すのもやめたい、やめよう」と思いながら時間が経てば、また同じ間違いを犯してきた。

そもそもルッキズムとはなんだろうか。

身体的特徴、いわゆる見た目が魅力的であれば良い、魅力的でなければ悪いと判断すること。魅力的でないと考える人に対し差別的取り扱いをすること、とある。

身体的特徴は分かりやすい。背が高い/低いとか、眉毛が濃い/薄いとか。まぶたが二重/一重だとか、脚が細い/太いとか、胸が大きい/小さいだとか。
それらの見た目に対し、自分が惹かれるかどうか、魅力を感じるかどうかは自由なはずだし、自由であるべきだと思う。そして何を魅力的に感じ、何を魅力的に感じないかは千差万別だし多様であるはずだ。

見た目が魅力的なことは素敵なことだ。けれどそれを何も考えず良いことだと判断し、主観的評価をあたかも正解のように声高に他人に言って回るのは全然必要なことじゃない。
誰かを魅力的でないとジャッジしても、自分がその人の良いところを見つけられなかっただけかもしれないし、ましてやその人の容姿や他の部分まで悪いと決めつけ、ネガティブな言葉や態度を取ることもこれっぽっちも必要じゃない。

無意識に作り上げられた「良い容姿」という幻想

それに身体的特徴が魅力的であること、言い換えれば、美の概念だって時代や地域によって様々だ。
例えば、平安時代なら顔は真ん丸で、目は細くて、艶のある長い黒髪が美人とされていた。分かりやすくイメージするなら雛飾りのお雛様だろうか。だけど1000年以上経った現代の日本ではお雛様みたいな見た目の人はファッション雑誌の表紙を飾っていない。

2020年、肌が白くても、こんがり日に焼けていても、目がぱっちりしていても切れ長の細目でも、背が高くても低くても、美の概念は多種多様になってきた。
それでも現代日本で良しとされるステレオタイプな「可愛い・美しい」はテレビや広告で毎日世の中に流され、人は無自覚にそれらに晒され続けている。
美人アスリート、美しすぎる50代、この十数年でそういう形容の仕方はだいぶ減ったけれど、それでも私たちが無意識に作り上げてきた「良い容姿」という幻想は確かに社会の中に、私たち自身の中に、根深く残っている。

自分をルッキズムの奴隷から解放したい

でも他人の見た目の何が良くて何が悪いだなんて一体誰が決められるだろう。時代や場所によって変わり続ける美を根拠に、良い悪いをはかる絶対的なモノサシを社会や他人が勝手に決めつけることなんて出来ない。「良い/悪い容姿」なんてものは、本当はこの世に存在しないのだ。

情けないけれど、今の私は、見た目が自分好みの人をかっこいい、と思ってしまうし、好みでない人をブサイクだと思ってしまう。そして一歩間違えれば、かっこいいから良くて、ブサイクだから駄目だと決めつけてしまう人間だ。
けれど自分の単なる好みを、良い/悪いに結び付けてしまうことに対しては、タイプかどうかを判断する時よりもずっと意識を持って考え、差別的なジャッジを防ぐことも出来るはずだと信じている。

あと何回「その人かっこいい?」と尋ね後悔するか分からない。けれど、その度に間違いを認め、時に迷いながらも向き合い、自分自身をルッキズムの奴隷から解放したい。何も感じず何も考えない奴隷のままで生きていきたくはないから。