昔から、“友人は深く狭く派”だった私は、社会人になって数か月が過ぎた頃、自分を取り巻く人間関係について改めて考えるようになった。大学時代の先輩から約3年ぶりに連絡を受け、飲み会に出席したことがきっかけだった。
先輩に誘われた飲み会は、いわゆる「上辺だけの人間関係」だけど…
会場に到着すると、驚いた。見ず知らずの人がたくさんいたから。先輩に訳を尋ねると、全員先輩の知り合いや、そのまた知り合いだった。要は、先輩が手あたり次第知り合いを集め、初対面や知り合いなど関係なく、ひたすら楽しむ飲み会を企画したのだ。
3年も合わないうちに、ずいぶん社交的になった彼に驚いた。その後も先輩は定期的に飲み会を開き、私もそれに参加し続けた。
具体的な参加理由は、これといってなかった。別に新しい出会いを求めているわけでもない。先輩に呼ばれたから、とりあえず行くという感覚だ。
初対面の人と交流しても、自分から率先して連絡先を交換することはない。その場で出逢った人たちのことも、日付とお酒が回ればすぐに忘れてしまう。いわゆる、上辺だけの人間関係。
「初対面」でも思いのほか盛り上がったり、情報収集できたりする
そういえば、大学生の頃“上辺だけの人間関係”に近い言葉として、挨拶はするけれど深い友好関係には至らない“よっ友”が話題になった。
「よっ友とより仲良くなるにはどうしたらよいのか」「よっ友はいらない」「よっ友ばかりで寂しい」等、ネット上にはよっ友に対して否定的、あるいはよっ友から深い関係に昇格しようという旨の記事がゴロゴロ転がっている。
一般的にこのような広く浅い関係は、悪とされているのだろう。私のかつての考え方のように、深い友情こそが正とされているのだろう。そしてネット上で揶揄されている“よっ友”こそが、私が飲み会で築いていた“上辺だけの人間関係”なのかもしれない。
飲み会では、同じ職業の方に出くわし、思わぬタイミングでタメになる情報を収集できたことがあった。ときには、ひたすら中身のない話を繰り返し、初対面にも関わらず思いのほか盛り上がり、大笑いして終わることもあった。別にその後も交流が続くわけではないが、私はそれでもよかった。“その場が楽しければ良い”という感覚を味わった。
友人は深く狭くが正しいと思っていたけど、少しずつ変わっていった
これまで“友人は深く狭く派”だった私が、飲み会の参加を繰り返すうちに、“上辺だけの人間関係”も悪くないと思い始めた。上辺だけというと聞こえが悪いが、その日にしか味わえない出逢いに触れ、わくわく感を味わい、ときには棚からぼた餅のごとく有用な情報を得られるのだ。その場限りの人間関係にも、きっと何かの意義がある。
かつては、深く狭く濃い関係こそが正だと思っていた私の概念が、社会人になってから少しずつ崩れ始めた。いろいろな人間関係の形がある。いろいろな付き合い方がある。固定観念から解き放たれた私は、なんだか以前より気軽に人と接することができるようになった気がする。これでまた少し、生きづらさが遠ざかった。