私の生きづらさの理由の一つ。それは「嬉しい」「ありがとう」「かわいいね」「すごいね」など、人からのプラスな言葉をなかなか素直に受け取れないこと。

「本当にそう思っている?」と意志とは無関係に、心の中でいちいち勘ぐってしまう。別に何かトラウマがあるわけではない。生まれ持った自己肯定感の低さやネガティブ、心配性などの性格が相まった結果だ。

でも、そんなときは思い出すのだ。天国の祖父との出来事を。

社交辞令を知り、プラスの言葉を「素直」に受け止められなかった

私は、幼少期から高校卒業まで両親、祖父母、弟と6人で暮らしていた。小学生からお菓子作りが趣味だった私は、暇さえあればクッキーやドーナツ、チョコレート菓子等、いろいろなお菓子を作っていた。

そして、決まって行うのが家族へのおすそわけ。普段のお菓子作りはもちろん、バレンタインデーに友達や恋人用のチョコレートを作るときも、わざと余分に作って家族に配るのが習慣だった。

お菓子を配ると、家族は皆とても喜んでくれた。中でも喜んでくれたのが祖父だった。「いつもありがとう」「また作ってね」そんな言葉をもらえるのが嬉しくて、私は何度もお菓子を作り続けた。

そして私は中学生、高校生と成長するのだが、ここで問題が発生する。どうやら成長過程のどこかで、“社交辞令”という言葉を覚えてしまったらしい。これが、私が人の言葉を素直に受け止められなくなったきっかけだ。別に具体的なトラウマがあったわけではない。ただ、ネガティブな私はふと“おすそわけ”の件について考えてしまったのだ。

よく考えれば、私が高校生の時点で、すでに80歳は超えていた祖父母だ。内臓が弱っていたり、歯が少なくなったりで、食べられるものが限られていたかもしれない。そもそも祖父母が甘いものが好きかどうかなんて、確かめたこともない。

祖父母にとって、孫はきっと無条件で可愛い存在なのだと思う。だとしたら、祖父母が私のお菓子作りに迷惑していたとしても、言えるわけがない。私のおすそわけは、自己満足だったのか…。

祖父が「生前好きだったもの」の中に並んでいたのは…

高校卒業後の私は、都内の4年生大学へ進学し、同時に一人暮らしを始めた。大学生活が後半に差し掛かった頃、祖父は病に倒れ、この世を去った。

地元に戻り、葬儀場に到着した。葬儀場に入ってすぐのところに「○○(祖父の名前)様が生前お好きだったもの」と書かれた、小さな幕が掲げられたスペースがあった。祖父の生前の趣味であった大正琴やゴルフの道具が並んでいた。そのブースを見て驚いた。大正琴の隣には、チョコレート菓子や甘いあんこがたっぷり詰まった饅頭、チョコチップ入りのクッキー等の甘味がずらりと並んでいた。

知らなかった。祖父は、甘いものが大好きだったのだ。祖父が、私のおすそわけの度にくれた褒め言葉や感謝の言葉は、社交辞令でもない。孫に対する情けから出てきた言葉でもない。祖父は、おそらく私の作ったお菓子を、本当に心の底から喜んで食べていてくれたのだ。私のおすそわけが、祖父のためになっていたことに対する嬉しさと、祖父を疑ってしまったことに対する罪悪感と、いろいろな感情が入り混じったまま葬儀が始まった。

「人から貰った言葉」は不用意に勘ぐらず、素直に受け止めよう

正直いって、世の中社交辞令だらけ。私だって、時と場合によってはお世辞を言う。正直が正義とは限らない世の中なのだ。

でも、せめて人の言葉をまず素直に受け止める姿勢を持とう。ましてや家族や大切な友人、付き合いの長いお世話になった人…そんな大切な人を疑ってかかっちゃいけない。

もし、また疑いの心をもった自分が現れそうになったら、祖父との出来事を思い出すのだ。不用意に勘ぐらず、人から貰った言葉はまず素直に受け止め、信じる姿勢をもつ。あのとき、天国の祖父にそう誓ったから。