テレビが、“みんな”のメディアだった時代があるらしい。街頭に置かれたテレビを人々がのぞき込んだり、テレビのある家庭に上がり込んで、くぎ付けになって観たりした時代があったそうだ。

しかし、その時代に私は生まれていない。何かの作業の後ろで、賑やかな音を流している。何もする気力が無いときに、ただ流しながら見ている。もはやテレビは、“みんな”に愛されていない。

現在のテレビによる典型的な「みんな」の定義とは?

それなのにテレビは、“みんな”を代弁したがる。そして、“みんな”が誰であるのか、“みんな”に対してどのような言葉で語りかけるのか、間違え続けているように思える。

最近のテレビによる“みんな”へのアプローチとして、SNSがかなりのキーになっているように感じる。芸能人がYouTubeの動画を作成してみたり、Instagramのいいねの数を競ったりしている。

しかし、テレビによる“みんな”にSNSに散らばる無数の人々を取り込むことは、的外れな取り組みである。SNSの魅力は、巨大な“みんな”のコミュニティに取り込まれることなく、個々で存在できる点にあるのではないだろうか。

または、自分にとって心地の良い範囲や構成員の“みんな”でいられることである。誰も気にも留めない愚痴を気にすることなく呟き続けたり、趣味についてだけ共有できる友人を得たりすることができる。

それらは、現在のテレビによる典型的な“みんな”の定義とは、かけ離れている。ひな壇の芸人と共に笑うことを強制されても、彼女たちにとっては不快でしかない。

思考よりも「感覚を刺激するような情報」が報道されることがある

そして、“みんな”に対して発するべきメッセージとして、“社会性”という観点を取り入れようとしながら、その性質自体をまるで分っていないまま、もしくはあえて無視をしてコンテンツを発信しているように思える時がある。

例えば、事件事故について“みんな”で共有すべきなのは、その事件や事故の防止策なのか、犠牲者のプライバシーなのか。“すべき”という観点で考えれば、私は防止策であると考える。

しかし、テレビでは思考よりも感覚を刺激するような情報が、それがまるで“社会性”のある事柄であるかのように報道される。速報性という意味では、SNSが圧倒的にテレビを上回る中、テレビは過去の遺物である自身の速報性にしがみついているのではないか。

それだけでなく、自らSNSに寄っていくように短時間の接触で、最大限のインパクトを与える言葉や切り口が目立ってきているように感じる。それが“社会性”のある情報ではなく、SNSの真似事であると、誰にでも分かるような形で報じているならば、まだ良心的だ。

しかし、長い年月をかけて築き上げてきた、テレビへの信頼を笠に着て、SNSよりもまだ自分が勝っており、速報性がありかつ“社会性”がある報道であるかのように騙す手口は悪質である。

多様な生き方に対する「包容力」のあるメディアであってほしい

ここまで罵詈雑言を書いてきたが、テレビには今の時代にも存在していてほしい。本来“社会性”がないとされがちな、マイノリティの切実な事柄を“みんな”で共有するためのメディアであってほしい。

“社会性”を追うのではなく、テレビで取り上げらえることで“社会性”のあるものにできるし、すべきものがこの世の中にはある。そして、それらは尖っていて、“みんな”を飽きさせないコンテンツになるはずだ。

テレビの作り手たちには、小手先のワードセンスではなく、己の感性で思考と感覚の両方を刺激できるスキルがあると信じている。テレビには“みんな”に追いすがるメディアではなく、多様な在り方や生き方に対する包容力を持ったメディアであってほしい。

普段はひな壇に上がれない若手芸人の逆襲、自閉症の少年が語る唯一無二の言葉、私の見たことのない景色。私は、全てをテレビに期待している。