スマホで動画を見ていても、漫画を読んでいても、こうしてエッセイを書いていても、なんとなくテレビが流れている我が家である。
最近よく目にするニュースがある。女子大生が羽田空港の多目的トイレで赤ちゃんを出産して絞殺し、公園に遺棄したというものだ。彼女は就活中だった。夢はキャビンアテンダント。報道される彼女の姿は快活そうなイマドキの女子である。

私はこのニュースを好んで見ているわけではない。むしろこんな薄暗いニュースはあまり見たいと思わない。しかし、毎日のように彼女の顔と名前がテレビで晒され続けるものだから、嫌でもこの程度の情報は覚えてしまったのだった。

テレビ報道に感じる違和感。ニュースの深掘りすべきところはどこだろう

このニュースに対してもやもやすることは二つある。まず、これほどまで毎日進展のない内容を何度も報道する必要があるのかということだ。これは今回の事件に限ったことではない。センセーショナルな事件があると、全く同じ内容が各局で流れる。同じ写真に同じ説明。それが毎日続く。時々新しい情報が流れたと思えば、大抵Twitterで先に得られるような情報である。リモコンを片手にチャンネルをあっちこっちへ変えてみるのだが、絵面は変わらず、なんとなく静かなNHKに落ち着く。

テレビに個性はないのだろうか。新聞であれば、あの新聞社は保守だとかリベラルだとか、立ち位置を論じられることがあると思うのだが、テレビはどうだろう。呼ばれるコメンテーターにそれぞれの主張はあるが、記者が得た情報に個性は見えない。これが偏向報道をしないという意味なのだろうか。
女子大生が空港で出産して赤ちゃんを絞殺し、公園に遺棄した。彼女は確かに許されるべきではない容疑者とされている。悲しい事件である。しかし、このニュースの深掘りすべきところはどこだろう。出産場所が多目的トイレだったことはどうでもいいし、夢がキャビンアテンダントだという情報はわざわざ彼女の家族のところにまで押しかけて得るべき価値があったのだろうか。

どうして矢面に立つのは母親だけなのか。男性にも責任にがあるのでは

二つ目のもやもや。それは、報道が一面的であるということである。女子大生の非道な行動ばかりに焦点が当てられ、ある人は彼女を非難し、ある人は彼女に同情をする。しかし、二面的に見てみると、赤ちゃんがいるのだから相手の男性がいるはずなのである。なぜ、男性についてはどの局も何も言わないのだろう。我が子に手をかけたのは確かに母親とされている。しかし、そのとき父親はどうしていたのだ。こういった事件を扱うとき、どうして矢面に立つのは母親だけなのか、常々疑問に思っている。赤ちゃんがいるのだから母親と父親という少なくとも二人の人間がいるはずなのである。産むのは母親だが、その責任は父親にもあるだろう。テレビは男性のプライバシーを守っているのだろうか。母親は顔も名前も晒されているのに、父親のプライバシーだけは無罪放免である。

だからといって、インターネットを駆使した一般人が相手の男性を調べてその首根っこをつかみ、社会に放り出すのは間違っていると思う。男性に社会的制裁を加えたいわけではない。こうした悲しい事件に対して、男性にも責任があるという事実を当たり前にしたいだけなのだ。良くも悪くもメディアには社会を変える力がある。人はメディアの中にいるプロの言葉を信じている。

SNSが当たり前になった世の中、一億総記者時代と言っても過言ではない

一面的な事実を発見し、二面的な個性を見つけ、記者の本領を発揮して多面的にニュースを取り上げてもらいたい。もちろん、内容はすべて事実であるのが前提だ。
TwitterやInstagramなどのSNSが当たり前になった世の中、一億総記者時代と言っても過言ではないだろう。それでもプロは負けじと個性を求めて突き進んでもらいたい。