誰かに助けを求められた時、
助けてあげることができる人はどれだけいるだろう。
そのSOSを真剣に受け止めることができる人はどれだけいるだろう。
私のSOSは、誰にも受け止められなかった。
空中に散って、消えた。

高校生の私に必要なのは、休息と、承認だった

今からもう10年以上前、私の高校生活は、戦争だった。
大学受験のプレッシャーや、ついて行けない授業や、合わない友達、いろんなことがどうしてだかとんでもなく辛く感じて、家と学校の往復以外に逃げ場のない生活に、追い詰められていた。

目覚まし時計が聞こえない朝、鉛のように重い身体を無心にして引きずって、無理やり学校へ行き、辛い時間を耐える日々。あの時、私に何が出来ただろう。泣いて、泣いて、泣いて、死にたい気持ちを引きずりながら、なんとか生きる以外に、一体何ができただろう。

自分の感情を押し殺す日々は、徐々に私の心を蝕んだ。
あの時の私に必要なのは、休息と、承認だったのだと、今になって思う。

本当に助けて欲しいとき、母は私を助けてはくれなかった

一度だけ、母に助けを求めたことがある。
その時私は、制服を着たまま、台所で夜ご飯の支度をする母の背中を見ていた。
言いたいことが喉までこみ上げてくるのに、それを言葉にすることが、なかなか出来なかった。

「明日、学校休んでもいい?」
やっとこさ声になった問いは、
「ダメに決まってるでしょ」
と、にべもなく、却下された。

たった1日でよかった。たった1日、休ませてくれたなら。
私はあんなに、追い込まれなかったと思う。
もう少し頑張ろうと、思えたのだと思う。
けれど私のSOSは、届かなかった。
伸ばした手を払い落とされたという事実、本当に助けて欲しいとき、母は私を助けてはくれないのだという事実が、心にしこりとなって残った。

それから、私が母に助けを求めることは二度と無かった。私にできることといえばただ一人ぼっちで、部屋に鍵をかけ、CDを流しながら、声も上げずに泣くことだけだった。

「あの時、どうして私を休ませてくれなかったの?」

そんな暗いトンネルを抜けてから、もう10年以上が経つ。
あれからいろんな出来事があり、私は自立した。
あの高校時代より、大人になった今の方がずっとずっと生き易く、快適であることを知った。

ある晩、何の気なしに、快眠BGMというものを聴いてみることにした。
ベッドに寝転び、目を閉じて、スタートボタンを押す。
その深い音色は、私の中にある深い世界を、感じたことのない感情で満たした。
心の奥底がじんわりとほぐされていき、無重力の中を漂っていくような、不思議な感覚がした。すると突然、心に蓋をしていたはずの、あのときの記憶が、鮮明に脳裏をよぎった。
「あの時、どうして私を休ませてくれなかったの?」それはびっくりするくらい新鮮な感情だった。涙が溢れた。
私が記憶の彼方へ追いやったはずの、無意識の心の叫びだった。

ああ、ショックだったんだ。悲しかったんだ。と思った。母親を批判することを嫌がったかつての私は、心の奥底にその出来事を隠し、その上にいろんな思い出を重ねた。けれど、あの時、精一杯勇気を出して伝えたSOSを受け止めて貰えなかった心の傷は、ずっと癒やされたがっていたのだ。

母には、与えることができなかったのだと、今の私は知っている

けれど、私は母に言えない。あの辛かった高校時代に、どうして助けてくれなかったのか。すぐに怒ったり、泣いたり、情緒不安定だった私を見て、批判的なことばかり言ってきたのか。どうしてただの一度も、学校を休ませてくれなかったのか。

なぜなら、私は知っているから。母が、弱者に手を差し伸べる優しさを持たないことを。愛情があるとかないとか、そういうのとは全く別の問題で、お金を持たない人が、誰かにお金を与えられないように、母には、与えることができなかったのだ。そして、母の持たないその愛の形が、あの時の私には必要だったのだ。

もう過ぎ去った過去のことだ。蒸し返して、どうのこうの言いたくはない。伝えたい、そして受け止めて欲しい、そういう期待は持たないことにした。そんなことを指摘して、分かってもらえない事実を前に、また傷つきたくないから。期待が破られたからといって、母を責めたくないから。
だから私は言わない。あの時に負った傷のことも、諦めの気持ちも、何も言わない。