私は頑張ることを、止めることができない。今まで受けてきた母からの恩を返すために、誰よりも努力しなくてはいけない。母が私の人生の犠牲になってきたからだ。
家事をやってもらえた方が楽だからと、母に甘えてしまう
父は結婚する時に「家族が帰ってきた時に、玄関で出迎えてほしい」と、母に頼んだらしい。結婚するとはいえ、一人の人間の生き方を、指図する権利は誰にもないはずなのに。専業主婦の母は、父親に頼まれたエナジードリンクを買いに行き、私が熱を出したら保健室まで迎えに来てくれた。家族の何でも屋のようになってしまった母は、友人と疎遠になり、ほぼ買い物以外で外に出なくなった。父は、母に関する支出を徹底的に削った。母は未だにスマホを持たず、インターネットに繋げないガラケーを使っている。父はせっかちなので、どこに行くのでも母を後ろに置いて、先に行ってしまった。そして、時に早く来いとでも言うように、こちらを振り返る。
母に家事を全てやってもらえた方が私も楽だからと、父の敷いたルールに甘えたくなる。母に家事を手伝ってほしいとか、何かを買ってきてほしいと言われた時に、面倒くさく思う自分もいる。自分という人間でさえ、変えることは難しい。
生活を作り上げること、それこそ芸術であり、尊敬に値するのに
就職活動では、多忙のあまり急性腎不全になるほど自分を追い込んだ。映画業界に絞ってしまっていたため、少ない募集枠を争い、厳しい選考ばかりだったが、なんとか希望の会社に就職することができた。入社2年目で、未だに実家から出勤している。学生生活が終わった後も、母は父と私の分の弁当を作り続けている。
最近『461個のおべんとう』という映画を、業界試写で鑑賞した。主演はV6の井ノ原快彦さんで、父子家庭の父親を演じている。息子に毎日の弁当を欠かせずに持たせるため、奮闘するストーリーである。飲みの席でも、帰省先でも、翌日の弁当を気に掛ける劇中の父親を見て、毎日弁当を作ることの大変さを感じた。そして、今作は父親が弁当を作るという珍しさがあるが、私の母が、毎日してくれていることと全く同じであることに気が付いた。弁当は、日常の中に息づく芸術だ。弁当箱の中での収まりのバランス、彩り、この緻密さを毎朝つくり上げるということは、アスリートの勤勉さと並べても良い程のことだ。そして、これほどまでに大変なことを人間は義務感だけで続けることは、到底できないだろう。
試写を観て帰宅した私は、母に映画を観て感じたこと、そして母をどれほど尊敬しているか、伝えた。私たち二人の楽しい話、切実な話、記憶に残る話は、いつも決まって、半地下の自宅の1階と地下を繋ぐ階段でしている。私が帰宅するのは母の風呂上りのタイミングのことが多く、地下にあるお風呂場から出てきた母と、帰ってきてそのまま会話する。お互いの肩がぶつかるぐらい狭い階段なのに、並んで座っていつまでも話している。穏やかにお互いの話を聞き、言葉を返す時間が、自分を見つめなおし、母を愛おしむ、私にとって大切な時間だ。
母が私の人生の犠牲になっているなんて思うことは、あまりに失礼だ。母は自分の仕事にやりがいを感じていると、話していた。生活を作り上げること、それこそ芸術であり、尊敬に値するのに、何故忘れてしまうのだろう。
母と過ごす毎日に感謝の気持ちを持っていたい
新型コロナウイルスの流行により、支給された給付金で、母はノートパソコンを購入した。美味しく作れそうなレシピを検索したり、前々から興味のあった童話を執筆したり、楽しそうに日々を過ごしている。そして、私は出社した日には、弁当について一言お礼のメールを打つようにしている。「白滝美味しい」とか「肉が好き」とかその程度の言葉だけれど、母と過ごす毎日に感謝の気持ちを持っていたいと思う。