ありのままの自分を愛せる日なんてくるのだろうか。

ありのままでいいなんて、一体だれがわたしに向かって言ってるんだろう。

そんな大衆的で抽象的な言葉を安易に放つことで、それは誰かのためになるのだろうか。

ずぶりとわたしの胸を刺した、話したこともない男の子が放った言葉

外に出れば、社会が作った理想像の女性を見せつけられ、毛を剃れ、脚を細くしろ、と電車の中まで追いかけてくる。

そもそも、自分の容姿について他人から言及されたのは、わたしが小学生のときだった。

話したこともない男の子から

「お前、太ってるな」と、

突然、なんの前ぶりもなく言われた。

衝撃だった。

そんなことはそれまでの人生で一度も体験したことがなかったからだ。

その言葉は、よく研いだ包丁のように、ずぶりとわたしの胸の柔らかいところをえぐり、吐き気さえしたことをいまでも覚えている。

そして、その頃から、男の子が怖くなった。

もちろんその言葉を放ったその男の子には二度と会いたくないとおもったし、もし見かけることがあったら、絶対に会わないように避けるようにした。

容姿にコンプレックスを持つわたしを愛するための、かすかな光

結局、その男の子は容姿のコンプレックスのトラウマをつくったわけだけど、その烙印はいまでも尾を引いてる部分がある。

「やっぱりわたしは太ってるんじゃないか」

と自分の容姿のネガティブイメージが常に頭の片隅にあって、それが悪いことであるという先入観が、わたしの思考の先端を埋め尽くしているのだ。

だから外に出れば、自分の容姿を気にしなければならないような気がするし、社会が求める女性像に近づかなければならない気がするし、そうじゃないと愛されないとまでおもうこともしばしばあった。

ありのままの自分は愛されないから、変わらなければならないとおもっていた。

ただ、なんでわたしが社会のために、だれかのために変わらなければならないんだ、と怒りに似た背景も背負っていて、答えがないジレンマが常にあるような息の仕方を繰り返していた。

ただ、それでもわたしは、どこかで、自分のありのままを愛せたらいいなと、かすかな光が実はあって、そして、だれもがその自信のなさを持ち合わせているんだともおもう。

そして、だれかからこう言われるのを待っている。

それでいいよ。
なにか、別の人になろうとしなくても、
ありのままでいることが、
社会のためになるかもしれないよ。

いまはそうおもえなくても、
「~かもしれない」
そういう提案はどう?

ネガティブなイメージがすぐに払拭できなくても、希望を持っていたい

「もしかしたら、ありのままがわからない自分でも、愛されるかもしれない」

そう思おうとしなくてもいいという選択肢があったらいいな、とずっとおもっていた。

「ありのままがわからない」ループに入ってしまってる自分に、

少し余白を持たせる気の持ち方でもいいのかもしれないと。

自分の容姿のネガティブイメージは、すぐ払拭しなくていいとおもうし、多分難しい。

世界の問題が一気に解決する方法は、やっぱりいまのところないのと同じで、

わたしのコンプレックスも、社会からの目も、トラウマも一瞬ですべてはなくならない。

ピシャリと閉まった窓から、なぜか、ほんの少し光がキラリと差し込んでくるように、

「もしかしたら、ありのまま、いまのままの自分でもいいのかもしれない」

そんな希望を持って生きていきたい。

少なからずわたしは、そんなふうに世界が溶け込むように、願い、そして、涙をこぼしても、その涙のうつくしさを忘れない世界をみていたい。