会社の中で男性と対等にあるいはそれ以上の才覚を見せつけるキャリアウーマン。
現実にも増えてきてはいるのだろうが、残念ながら私の身近では少ない。だからどうしても、ドラマや映画の登場人物をイメージして考えてしまう。

長い髪をかきあげて、部下に指示を出す。
「◯◯クン、これお願いできるかしら?」

こういうシーンに私は疑問を抱く。
こんな人、本当にいるんだろうか?

必要以上に性を振りまくのは、戦略として悪手だとしか思えない

私がどうしてそんなこと考えたのか。
それは、髪をかきあげる仕草も、女性的な口調も、しなければいけないというものではない。髪の毛はロングヘアでもまとめれば仕事の邪魔にはならないし、話し方は敬語を使えばいい。
それなのに、あえてそれを貫くというのは、必要以上に性を振り撒いていると両性から捉えられてしまい、戦略として悪手だとしか思えないからだ。

もちろん、どんな時も男性と同じような話し方をすべきだとか、扇情的な髪型をしてはいけないとか、そんな風に考えているわけではない。
私がポイントにしたいのは、会社という組織の中での振るまいとしてどうかという点だ。

会社全体の男女比はともかく、管理職の場合、圧倒的に男性の割合が高いのは、統計データなどで見ても確かな事実である。女性の管理職の増やすよう推奨されているとはいえ、おそらく男性は乗り気ではないだろう。既得権を奪われたくないという思いを隠し、「適した女性がいない」と答える男性は多いのではないかと思うのは、私が穿った見方をしているせいだろうか。

必要以上に女性らしさを武器にすると、舐められるような気がする

真意はさておき、女性が社会人としてやっていくためには、男性を相手に渡り歩く必要がある。ただでさえ、「女だてらに」とか「女のくせに生意気だ」と考える男性が多い中で、あえて女らしさを振りまくような手段をとるだろうか。確かに、女性らしい細やかさが突破口となることもあるだろう。しかし、必要以上に女性らしさを武器にしてしまうと、舐められておしまいのような気がする。

ここでいう女性とは、会社という組織における「古くからの女性のイメージ」を指している。
結婚、出産、育児などの点から、会社という組織において、女性が重用しづらい存在であったことは、否定できない。長期的な仕事を任せられない。女性自身も、仕事の家庭と両立のため、仕事をセーブせざるを得なかった現状があったと聞く。

しかし、全ての女性がそのライフイベントを経験するとは限らない。望む人がいれば、望まない人もいる。
だが、会社はそんなことはわからない。これまでの歴史から「女性はそういうもの」と思ってしまうだろう。

その枠の中に、あえて迎合してしまうと、結局女は、女性としての役割を与えられるのが好きなんじゃないかと思われてしまうだけだ。それこそ、お茶くみだとか資料のコピーだとか、いつまでたってもそういう仕事を振られても、そういうことをするために社会人になったわけではないのだ。

メディアが描くキャリアウーマンに、「イイ女」の欲望が透けて見える

あえて、女らしさを振りまくキャリアウーマンを登場させるのは何なのか。
私は、その狙いを邪推してしまう。

能力はあってもいい。時に楯突いてもいい。でも、女らしくあってほしい。最終的に男の領分を汚さず愛でられる存在であればいい。
そういう「イイ女」が会社にいればいいのに。

そんな欲望が透けて見えるような気がしてしまうのだ。

働く女性が共感できるような女性像を描いてほしい

これはフィクションだ。何をむきになっているんだ。そう諭す人もいるだろう。確かに、これは物語だから、どう捉えるかは受け手次第というところはではある。
しかし、いくらフィクションだとしてもメディアの影響力が大きいものであることは、当然認識しているだろう。

そもそも、無から有を生むことはなかなか難しいことだ。土台としてこういう文化があるからこそのフィクションにおけるキャリアウーマン像がこのような形として表れているのではないだろうか。

社会人として生きていくにあたり、最終的には自分の道は自分で切り開く必要があることは、私も社会人経験を通して認識しているところである。しかし、その道を切り開くためには、どのような道を作る必要があるのか、手本とするものが欲しいと思うのは贅沢な願いなのだろうか。

私がメディアに願うのは、働く女性が共感できるような女性像かこうなりたいと思える理想の女性像を描き続けてほしいという一点である。