離婚を機に手に入れた小さな住処にささやかな暮らしを立て、およそ三ヶ月が経った。
ここのところ、心地の良いお布団の中にどれだけ一人くるまれても落し切れない、重く鈍い疲弊を感じる。職場に行けばどの角度からも肌を刺激する視線を感じるし、誰にお願い事をしても向き合って貰えず、自分の言葉が目の前でぼろぼろ取りこぼされている様な気分がする。
いつもの様に私の自意識が強く出て、そのような感覚を起こさせているだけ、となるべくそれらとは取り合わない風に努めていたけれども、
「最近随分と疲れているようだね、ミスも多いと聞いたよ」
という言葉から始まった、持病と体力不足を理由とした解雇通告に、一気に身体から力が抜けてへなへなになった。
奇妙な言い方になるけれど、圧を掛けられれば掛けられる程に、お前は辞めるべきだ、此処には要らないんだ、と迫られる程に、身体が救われてゆく気がした。
同僚のお姉様は
「貴女、持病や体力は切るのに都合の良い材料にされたのよ。貴女も私も、ずっといじめに遭っていたのよ」
と小さく漏らした。彼女は知らんぷりの上司たちに、人間を雇う身として人間の心がないわ、どうして私たちにそんな言い方が出来るのよ、と怒りをあらわにしていたけど、私はこんな時にはいつだって、全く対局にある様な態度しか取れない。自分の無力さを盾にしながら怒りを表せない。
剥き出しの弱さを護るために賢くなる。
総ての制裁は当然で、常識的で、一般的であるのだと、そしてちゃんと事実を握って咎めているのだと、ひたすらに諦念する。だって
「あなたたちの言うことはおかしい」
と言う為には、私は私の無力さに何らかの尊厳を見出していなければいけないのであり、そんな自信を持ち合わせたことは一度だって無いのだ。
本当に私に必要だったのは『全く何も考えない時間』だった
通告を素直に受け入れながらも、弱い人間が出来る情報集めに躍起になった。
ネットを泳いでは職場トラブルの相談口を見つけられる限り確保し、法律に詳しい友人にアドバイスを仰ぐ。
主観的な物言いの権利を自身へ見出せない私が自分を護るために乞うのは、正しいのか正しくないのか、何が合理的な行動なのか、それだけだった。
でも益々疲弊するばかりだった。
手に入れられ、考え得る全ての情報と判断を手に入れようと、目を血走らせる私に本当に必要であったのは『全く何も考えない時間』であったのだと。何時迄も何時迄も、気付くことが出来なかった。
せっかく無理に申告した休日なので多めのお昼寝をし、日が落ちてから動き始めた。お部屋がやや荒れていたので丁寧に片付けをし、最近食の細いペットの蛇にも、贅沢に二匹の餌を解凍する。おそらく、今日もご飯はイヤイヤなのだろうけれど。
発掘したのは小さな弾丸
化粧品入れを整理していたら、くしゃくしゃシワだらけになった小さな紙袋を発掘した。舌用のボディ・ピアスを嵌め込むピアッサーだった。
仕事を始めるずっと前、コロナとマスク不足で世の中が騒ぎ始めたころ、きっと何よりも素敵な秘密になるだろう、とこっそり入手していたものだ。マナーとか新しい常識とか、見えるものの価値だけを云々し続ける報道は、もう聞き飽きてうんざりだったから。
そして思い付いただけで具現化してない秘密とシニシズムなんて、少しの意味も持たないと思っていたから。
パッケージを開封すると勿論、耳朶用のファッションピアスなんかと違って随分と太くて、ボールキャッチを嵌め込むための襞がギザギザ彫り込まれたグロテスクな針が現れた。
ピアッサーを自分で扱ったのは高校生が最後な上に、歳を取る度に臆病になるものだから直視した途端に怖くなる。でももう、開封してしまったから。
検索をかけて一通りの手順を確認し、印を付けて針を合わせる。舌は案外小刻みに震えるものので神経を集中して動くまいとしてみるけど、縮こまった舌の厚く固いこと。
これではスムーズにいかない、と脱力してみたり、切ってはいけない血管を何度も確認したり、スピードが落ちると緊張が高まっていってしまうのに、中々思うように手順通りに進まなかった。
ようやく、定めた狙いへ、一気にピアッサーを下ろした。けれども不幸な事に、指の力が足りなかったのだろう、貫通し切れず舌の内部で針は止まり、その襞は周りの肉を吸いつけてしまっていた。
貫通しなかったたった1本の痛み
鏡に映る不格好な自分の姿を暫く眺めていた。
半端に突き刺さった針穴から少しずつ血が滲んでゆく。どうするべきか否か、ということより、たった一本の痛みを貫き通せなかった哀しみが湧き出す。
止まった針は痛まない。
私は、私にしか分からない、私だけの秘密を、私の為だけにこの肉へ突き刺したのに。
どうして貫けなかったのか、どうしてそれは、許されなかったのか。
どうして、こんなに些細で、しかし本当は酷く痛切であった祈りが、私の身体を貫通しなかったのか。
すっかり粘膜を巻き付けてしまった針を、声を上げて引き抜いた。激痛と共に大量の血が溢れた。
手に入れられなった。私だけが感じれるものを。私から発され、私自身へ向けられた衝動を。
正しさにも合理性にもどんな諦念にも絡め取られはしない、私を根拠とし私の中へ回帰し完結する、誰にも分け与えられないただ一本の鋭利な価値。
それは、手に入れられなかった。
久しぶりに凄く沢山、声を出して泣いた。悲しくて悲しくて情けなかった。
貫かれないままにこの身体に留まってしまった想いを赦し愛せるのは、果たしていつになるだろうか。とても寂しい、行き場なく涙の湧き出す孔を自ら見出し、拡げ、そして塞げなくなってしまったことに、たった今気付いてしまった。
役割を全う出来なかったバーベル・ピアスは今朝方、いつも身に付けている自作ペンダントの中に嵌め込んだ。エゴイスティックな衝動を弾き返してくれた私の肉体の意味を、少しだけ大切に想っている。
予期していたものとは違う形で私の身体と共にあるものとなったこの装身具は、誰にも、そして、自分自身の強い哀しみにさえ、傷付けることを許さない私の身体という存在を証明してくれる御守りであるのだと。