気がついたら、私は可愛くない方の女の子だった。

小学生の頃までは人の容姿に関心がなくて、みんな同じようなものだと思っていた。そんなことより絵を描いたり、本を読んだり、遊んだりすることの方が重要だった。
中学生になってから、同級生の男の子に「お前ブスだよ」と言われて、そこで初めて自分が可愛くないことを知った。
自分が可愛くないことを自覚してから、私はひっそりと生きることにした。好きな人ができても絶対にアプローチしないし、ピンクのシャーペンは間違っても買わない。可愛くない自分にはなんの権利もないと思っていた。人権剥奪。

品定めするような人の視線がいつも怖かった。そして、あの人は私より可愛い、あの人は私よりブス、と心の中でいつも考えていた。可愛いことが何よりも正義だと思ったし、自分よりも可愛くないと思う人のことをこっそり見下していた。
きらきらの笑顔を振りまいて、私の好きな人と楽しそうに話す可愛い子が、羨ましくて、憎くて、嫌いで仕方なかった。
芸能人、街頭インタビューの一般人、雑誌に載っているモデル、クラスメイト、すれ違う人々、全ては、顔が良いか悪いか。

努力しても、やっぱり可愛い子には追い付けない

上京して大学生になってから、メイクを覚え、コンタクトレンズをつけるようになり、髪の毛を伸ばしてから、ひっそり生きることをやめた。
自分の容姿にまつわるあらゆることにお金をかけられるようになって、幾分かマシになったと思ったからだ。お、私、なかなかいいんじゃないの?なんて思って、恋する権利や、ピンクを身につける権利がもらえる水準まで上がってこられたと思ったのである。

それでも、私は可愛くない方の女の子だった。

大学の友人と渋谷を歩いていた時、その子だけがナンパされた。私はまるでその場に存在しないかの如く、幽霊扱い。ナンパしてきた人は一度もこちらに目線を合わせてこなかった。いや、ナンパされたいわけじゃないけどさ。大学でも、あの子は可愛い、あの子はブス、と会話が繰り広げられることは日常茶飯事、至極当たり前だった。ああ、私も影で言われているだろうな。
ずっと続くんだ、と思った。メイクを研究して、身なりを整えて、それなりに努力しても、生まれつき可愛い子には追いつけない。世の中は甘くない、思っていたよりも厳しい。骨格からやり直したいなあ、と思った。

私を解き放ったのは、友人のひとことだった

そんな私が容姿問題から解き放たれ始めたのは、最近のことである。
前述したナンパの話を笑い話にしようと、フルーツパーラーでパフェを食べながら、古くからの地元の友人にヘラヘラしながら語った。すると彼女は一切笑わずに、私の目をまっすぐ見て、真剣な顔で言った。
「私は、あなたも可愛いと思うけどね」
彼女の一言は私のこころに一直線に刺さって、じんわりと温かさが広がった。ちょっと泣きそうになったのをこらえて、パフェのいちごをぱくぱく食べた。
彼女とは、しばらく会っていなかったのだが、そういえば、こういう清らかな人だったなあと思い出した。昔から、誰にでも分け隔てなくて、そういうところを尊敬して、憧れていた。
彼女にとってはただの慰めの言葉だったかもしれないが、私は「何それ素敵じゃん!」と感銘を受けて、彼女を見習おうと決めたのだった。

もう、誰かの「あの子、ブスだよね」には同調しない。絶対に。
余裕があれば、「私はそんなことないと思う」って言ってやるわ。
「あの子、ほんとに可愛いよね」には、「あなたも可愛いよ」って返したい。

とはいえ、自分自身にこびりついた考え方は、簡単には変わらないものだ。
他人に対して、容姿の善し悪しを無意識に考えてしまうときがあるし、他人からの品定めの視線に怯えることはある。「これってもしかして綺麗事?」と思うときも、ないわけではない。

でも、他人からのジャッジなんか、気にしないことにした。ナンパ師は特にね。そして、他人のことはジャッジしない。とりあえず、そう決めたのだ。
これは、世に蔓延する容姿問題に対する私の草の根運動。
女の子に、私自身に、見た目のことで傷ついて欲しくない。誰がなんと言おうと、私は可愛いし。そしてみんなも可愛いから。