美しさの定義は社会が決めるもの、あの日まで私に関係ないものだった

「セイケイした?」
小学生の時、友達が私の昔の写真を見て放った一言で、私は初めて美容整形なるものを知った。
中学生になり、周りの子たちも美容に敏感になると、今まで気になっていなかったことが気になり始める。そんな多感な私たちに「美しさ」の定義を教えてくれるのは、いつも社会だった。「ぱっちり二重に」「シミ、ソバカスのない肌に」「紫外線は敵だ」「脂肪と糖を吸収しにくく」と。
街を歩いていても、スマホを見ていても、「美しく」なるための広告はそこら中にある。生まれた時から二重だった私は、二重整形の広告を見ても私には関係ないや、とどこか高見の見物をしていたが、ある日ひとつの施術が目に留まった。

「左右の二重の幅を揃えて、バランスの良い顔に。」

二重でも、左右非対称なのは駄目なのか。バランスが悪いのか。

非対称なこの目は駄目なの?気づけば美容整形について考える日々

私はずっと背後にいた敵にやっと気付いたようなショックを受けた。
慌てて小さい頃の写真や最近撮った写真を見る。左右の二重幅が、全然違う。右の二重は狭くて、目が吊って見える。
言われてみれば、バランスが悪い。こんな二重なら、「作った」方が綺麗だ。お気に入りだった私の二重は、一瞬でコンプレックスになった。大学生になって、お金を貯めたら目を整形しよう。

あれから数年、世の中は便利になって、知らない人の色んな情報が手にとるように見られるようになった。美しいことは善とするのに、美しくなるために整形をすることは悪とする、矛盾を突きつけられた。
するならバレないようにしなきゃいけないんだ…。そう思うと、自分の顔にも、整形しようとしていることにも、嫌悪感が湧いてくる。そんなある日、テレビである俳優のインタビューを見た。

「僕左右で目の大きさ違うんですよ。だから、役によってどっちから撮ってもらうか変えてるんです。」
言われてみれば左右の目の大きさが違うが、彼はあたかも秘密兵器を持っているかのように誇らしげに話している。ずっと私がコンプレックスに思っていたのは、何だったんだろう。私が嫌っていたのは、この二重ではなく、社会が決めた「綺麗」に当てはまらないことなのかも知れない。

美しいかどうかを決めるのは、誰かではなく、私自身の視線

もう一度鏡をまじまじ見てみると、あの広告を見るまで私は気にしたことがなかったことを思い出した。
私がこれを美しいと思えば、美しいものになるんだ。美しいかどうかは、誰かの視線じゃなくて、私の視線で決めれば良い。

みんな誰ともわからない誰かからの視線に対して、美しくなろうとしている。自分自身が美しいと思うなら、整形をしたら良いし、ダイエットをしたら良い。そのままを美しいと思えるなら、その個性を誰よりも楽しめば良い。そう思えるようになってから、私は左右でアイシャドウの色味を変えたり、前髪を横に流してボリュームを上げたり、左右非対称の二重を楽しんでいる。
あの俳優さんのおかげで、写真を撮るときに服や周りの雰囲気に合わせて、柔らかい印象の左側と、キリッとした印象の右側を使い分けるなんて技まで使えるようになって、今では不釣り合いな二重を愛おしくさえ思う。