大阪市民の私に、住民投票のお知らせが届いたのは10月の始めだった。
恥ずかしながら私は普段、ニュースを自分が興味のある分野しか読まない。それも斜め読みだ。何か月も前からこの住民投票は報道されていたけれど、どこか他人事だった。投票権があることを知らせる通知が、自分の名前宛てに届いて初めて、「大阪市廃止」いわゆる都構想は自分事になった。
そしてその協定書への自分の意見を、賛否どちらかで示すことをおよそ1ヶ月後に求められることになった。そこからは日常生活の隙間で、新聞やテレビ、ネット配信や書店、投げ込みチラシや街頭演説など、様々な入り口から情報を得て考え始めた。

このエッセイの中で、私は自分が最終的にどちらに入れたかは書かない。
結果は皆さんご存じの通りだし、今回の私のもやもやは結果には直接関係がない。投票に至るまでの情報戦で感じたことで、それは賛成・反対どちらの立場でも共通していたところだった。
それは「デマ」という言葉があまりにも軽く使われることへの、不安と不満だ。

「嘘」「デマ」という言葉の強さに心が疲れた

選挙戦の終盤、世論調査で賛成と反対が拮抗しているとの報道が出たあたりからか、相反する主張に対して「デマだ」と言う人が格段に増えたと感じた。
「『○○はデマ』というのはデマ」という返しもあれば、「デマに惑わされるな」という呼びかけもあり、情報戦はカオスだった。
「デマ」が流れる度に私の心はざわついた。その言葉を聞くたびに悲しく辛い気持ちになり、前向きに考えようという気持ちが削がれ、そこから回復するのに時間と労力が必要だった。

デマという言葉を複数の辞書で引くと、「政治的効果を狙って、意図的に流される虚偽の情報」「うその/人々をだまそうとする知らせ」とある。
私の体感としても「デマ」という言葉には、①真実ではない②発信者はそれが真実ではないと知っているのにあえて流している、の2つのニュアンスが含まれているように思う。

Aさんが、Bさんの主張をデマだと言うとき。Bさんは自分の組み立てた論理と主張が「真実ではない」と言われたことになる。Bさんが架空のできごとや空想からその主張を組み立てたのでない限り、そこには何かしらの事実があるのだから、そのデマという指摘そのものが誤りである。
だが悲しいことに、「〇〇はデマだ」という言説のほうが、「〇〇はデマではない」という言葉よりもずっと強いので、多くの人の手を介して、遠くまで飛んで人々の心に残りやすい。

第三者であるCさんが、「Bさんの主張はデマ」という言葉を耳にしたとき、「嘘である(その可能性がある)」という情報に加えて、「Bさんはわざとその主張をした、だまそうとしている」という含みまで感じ取ってしまう。

誰かにだまされて気分がいいなんて人は、悟りの境地にいるようなごく少数だろう。おおかたの人が疑心暗鬼になる。信じるべきはAさんかBさんか、その人の口の巧さに委ねられていき、主張そのものとその根拠の検証がおざなりにされていく。

嘘をつかれている、だまされているのかも知れないという不安

「誤報」という言葉もよく聞かれた。ある根拠を持って書かれていることを、事実ではないと断定するのは容易ではないはずだ。なのにあまりに迷いなく「誤報だ」と決めてかかる人がいて恐ろしかった。人は図星な指摘をされると真っ赤になって怒る傾向にある。即座に火消しに走らなくちゃいけないほどのアキレス腱だったのかなと邪推した。

対立を煽る言葉は本当に強い。今回の選挙戦はこの足の引っ張り合いが顕著で、ありとあらゆるところで「デマ」「嘘」「大誤報」と聞こえてきた。その度に私は「あー、もういや」と思考が停止した。
新しい政策に対してなるべく積極的に考えたい時期に、この落ち込む時間と、そこから回復するためのエネルギーは本当に無駄だった。

「これはデマだ」と言う人は、「お前は悪意を向けられてるぞ」と諭したいのだから、善意や親切心からの言葉かもしれない。
だがその指摘された情報をよくよく読んでみると、別に無根拠ではなかったりする。
確かに一面的なきらいがあったり、やけに細かなところを大きくしたような言い回しになっていたりもした。
だとしたらそう問いただしたらいいのに、なぜ「デマ」「嘘」という言葉を真っ先に使うのだろう。
誰かに嘘をつかれている、だまされているのかも知れないという不安は、積極的に考えようとする私の心を怯ませるのに十分だった。

お互いを疑うことは、憎しみ合いの一歩手前ではないか

振り返ってみて改めて思うけれど、「デマ」って、そんなに軽々しく使っていい言葉じゃない。
3.11が起きた日のツイッターに書き込まれた「がれきに埋もれています。助けてください」という投稿のいくつかは虚偽だった。
「コロナでトイレットペーパーがなくなる」という無根拠な噂のせいで一部で買い占めが起きた。
あげればきりがないけれど、私たちはたやすく嘘を信じてしまう。
そこに悪意があるかどうかも、文字情報だけでは判断しかねる。
そして強い言葉は人を怯えさせ、疑心暗鬼を誘う。

最近は色々なメディアが「ファクトチェック」を行っている。
社会に広がった情報や言説が、事実に基づいているかどうかを調べ、そのプロセスと結果を記事にすることだ。
私はこの試みはどんどんやったほうがいいと思うが、残念ながらすごく時間がかかる。無いことを証明することは「悪魔の証明」とも呼ばれ、極めて困難だからだ。

その大変なプロセスをすっとばして、カウンターパンチのように出される「デマ」という言葉。シンプルでキャッチーなその2文字はあっという間に広がる。
一度デマとされた情報や主張の根拠、確からしさは検証前から悪い印象を持たれる。
例えそのあとのファクトチェックで事実に基づいていると認定されたとしても、完全に印象を払拭できるほどの拡散力は持たない。
こうして、受け取った側の不快な印象は強く刻まれる。

私はこれからも「デマ」という言葉からは距離を置く。その言葉を咄嗟に発する人、それに乗っかる人からは離れる。

お互いがお互いを疑うことは、憎しみ合うことの一歩手前のように思う。
多くの人、特に影響力のある人は、「デマ」という言葉を使う前で一度立ち止まってほしい。「一理ある。だが、…」から反論を始められないだろうか。
裏付けされた情報に基づいてなされた主張を、すぐにウソ認定する前に、取れる姿勢があるはずだ。

2020年の秋に選挙権を持っていた大阪市民として、まず何ごとも信じるところから始めたいと、私は考え疲れた頭で思っている。