「ふつうとは、一体なんだろう?」と考えることがある。

思い返せば、私の母はよく「ふつうは○○だよね」と言っている人だった。「母親だったらふつう子供を置いて遊びに行かないよね」と言って、自分が掲げる“ふつう”の枠組みから、外れるような人達のことを蔑む目で見ていた。

反対に、私の旦那の母は「ふつうが1番難しいよね」と言う。どうやら、“ふつう”の持つ意味というか中身みたいなものは、人それぞれ違うみたいだ。それは、2人が歩んできた人生の違いを考えると納得がいく。

では、私自身は世間でいうところの“ふつう”に当てはまるのかどうか考えてみる。

「何者かになりたい」という欲が、心にまとわりついている

私は、まぁそれなりにふつうの家庭に育った。地元の学校に通い、成績はふつうかちょっと下ぐらい。見た目もぽっちゃりなところ以外は平均的だし、読書が大好きなどこにでもいるふつうの女の子だった。

そして、大人になった今ではふつうの主婦だ。私は、それなりに苦労はしてきたけれど、平凡な人生を送ってきたと思う。機能不全家族で育ったり、いじめも受けたりしたけれど、今、振り返ってみても「私はふつうじゃなかったんだ...」と悲観的に感じるようなことはそれほどない。私みたいな境遇の人は、世の中に溢れているし、そこにアイデンティティを求めるようなことはなかった。

私は、ふつう。だからこそ「何者かになりたい」という欲が、心にまとわりついてなかなか消えてくれない。

私の書いた言葉や文章が誰かの役に立ち、心に残ったら嬉しい

『かがみよかがみ』にエッセイを投稿しようと思ったのも、いつかエッセイを書いてみたかったのと、私はまだ何者かになれる、という強い気持ちがあったからだった。恥をしのんで正直に書くと「何者か」という曖昧なものではなくて、私は文字を書くお仕事がしたい。

私の書いた言葉や文章が誰かの役に立ったり、胸に残るものになったらどんなに嬉しいことだろう。そして、私は書くことが好きだから、なによりも私は自分のために書き続けたいのだ。

でも、私はもう29歳で4人の子供達もいる。自分のやりたいことだけを考えて行動出来る時期は、とっくに過ぎてしまった。しかし、挑戦したい気持ちは日に日に大きくなるばかりで、とりあえずその気持ちを落ち着かせるためにも『かがみよかがみ』にエッセイを投稿してみたのだった。

もしダメだったときに自分はどうするんだろう…という試しにも近いような気持ちもあった。「やっぱりダメだった」とすぐに諦めてしまうのか、はたまた「次こそは...!」とリベンジに燃え上がるのか。私の夢に対する気持ちは、一体、どれぐらいのものなのかがちゃんと知りたかったのだ。

「そんな簡単に採用されないだろうし..」.という気持ちでいたので、採用通知が来たときは飛び跳ねるほど嬉しかった。応援してくれていた家族も一緒に喜んでくれた。自信にもつながった。なんだか少しだけ、何者かになれたような気がした。

夢を追いかけるために、日々もがく「自分の姿」を誇らしく思う

それから、私は書きたいと思うたびに、エッセイを書いて投稿している。自分のブログも作って、そこでも文章を書いている。エッセイは採用されないこともあるけれど、それでも挫けずに書き続ける自分がすごく好きだ。

夢を追いかけるために“ふつうのわたし”を超えて「何者かになりたい!」と、日々もがいている自分の姿はとても誇らしいものではないだろうか。

そして、ブログを通してお仕事のお声もかけていただいた。本当に少しずつ、一歩ずつだけれど、私はずっと夢見ていた世界に足を踏み入れ始めている。それがものすごく楽しいのだ。

もちろん、楽しいことばかりじゃなくて、苦しいこともあるけれど。でも、見慣れたふつうの世界から飛び出せたときのワクワク・ドキドキした気持ちが、私にまた夢を見させるのだ。私は、ふつうだった私を越えてゆく。