高校生のころ、美容院が苦手なあまり、前髪を伸びるままに伸ばしまくっていた。
同じ学年の少女たちがつねに鏡を持ちあるき、話しながら片手で何度も前髪をなおし、授業中にまで唇のまわりの淡雪ほどのうぶ毛をねっしんに抜いているなか、わたしばかりがぼんやりと前髪を荒れ野にしていた。

髪を切ったら失恋? できあいの物語を背負わせないで

とにかくぼんやりとした十六歳だった。熾烈なカワイイ・レースにさっさと白旗をあげ、図書室にばかりいる。
いつでも片足を文学の世界に浸していたわたしにとっては、自分の姿かたちなんて、この世にあってないようなものだった。

でも、教師、とくに女性の教師たちにとっては、わたしの前髪が気にかかったらしい。
廊下ですれちがうと、「前髪が目にかからないように分けるか切るかしたら?」といって諌める。
しかし、わたしは校則に前髪に関する規定がないと知っており、強気で聞きながしていた。教師の語気がどことなく不安そうで弱々しいのも、わたしの強気に拍車をかけた。

ところがその前髪が、あるところで突然じゃまになった。さすがのわたしにもどこかに閾値があったらしい。
そこで、家でしているヘアバンドでぐっとおでこを出して登校したら、教師たちがやたらに食いついてきて、ぎょっとした。
「似合うじゃない!」と口々に褒めてくる。
しまいには、「目がかがやいているのが見える!」とまでいわれ、なんだそれは。

ところで、時を同じくして、わたしには友だちが少なかった。
前段でなんとなく察せられたかもしれないけれど、わたしはぼんやりしているうえに気むずかしくもあった。
チーム分けでは露骨に余り、隙を見ては保健室で授業をサボり、出席日数ギリギリまで学校を休みまくるわたしを、教師たちは心配していたようだ。

保健室にようすを見にきたり、休んだ日に電話をかけてきたりするとき、彼女たちはみんな不安そうで、弱々しい声を出す―前髪を指摘するときと同じ声を。

つまりはこうだ。教師の目にうつるわたしの前髪は、心をとざす内気な少女の象徴だった。それがいっぺんにおでこ全開になったために、わたしは態度をあらため、心をひらいたことにされてしまったのだった。

いやいや、冗談じゃない。前述した通り、わたしの姿かたちなどあってないようなもので、前髪を下ろそうが上げようが剃ろうがなんの意味もない、映画評論じゃあるまいし。
あるとしたら、「美容院が苦手だ」と「前髪がじゃまだ」というしょうもないマイナス感情ふたつがぶつかりあっているぐらいで、心をひらくとかとざすとか、そんなことを読み取ってもらっては困る。
目がかがやいている?  目がかがやいているだって?

わたしたちは、人間のなかで生活するあまり、互いの身体に過剰に見慣れてしまった。
そのせいで、身体のちょっとした変化や動きにさえ、読み尽くされたできあいの物語がまとわりついてくる。
髪を切っただけで「失恋した?」といわれたことはないだろうか。駆け寄ったら好意と受け取られ、太りすぎたらばかにされ痩せすぎたら哀れまれ、涙が出れば女の武器なんていわれる。

けれども、本来人間の身体と心はもっと複雑で、ときに不条理とさえ思える物語の上を生きている。

その人が持つ物語は、慎重に読み取らなくてはいけない

身体と解釈のことを考えるとき、好きな人と出かけたある日のことを思い出す。
その夜、わたしがなにを話しかけても、その人はどこか上の空だった。目線はわたしではないほうをふらふらとさまよい、ほとんど笑いもしない。
前のデートまではそんなようすではなかったので、ああ、この人はわたしといても楽しくなくなったんだ、と思った。

さすがに悲しくなって「いくらつまらないからといってその態度はあんまりだ」と訴えると、町を歩いていた好きな人は立ち止まった。そしてしずかにわたしを連れて人の波を外れ、建物にもたれて立ってわたしの目をのぞき、いちど深く呼吸をした。
そして、その前の晩に、事故で学生時代の友だちを亡くしたと話してくれた。

そのとき、路上から逃げ出したくなるほど自分を恥じた。どうして目の前の人の身体に起こっていることを、すべて自分が原因だと思い込んでいたのだろう。
あまりに思慮が浅く、傲慢だった。この人はたくさんの時間と関係のなかを生きてきていて、わたしが見ているこの人のすがたは、あくまで断片に過ぎないのに。

たしかに、身体は意識的にも無意識的にも、さまざまなメッセージを発する。しかしそこから意味を読み取り、物語を編むことは、とても慎重に行わなければいけない。
わたしたちが持つばらばらの身体をひとつひとつ読み、語るには、すでにあるできあいの物語では、そしてひとつの視線では、とても足りないのだ。

互いの生きている物語を共有する方法とは

さて、それでも夢想することがある。
言葉を交わさなくても、身体をみつめあうだけでわかりあい、互いの生きている物語を共有する―そんなことができたらどんなにいいか。

けれども、やはりそれは現実的ではないようで、かなり親しくなった人とさえ、いまのところは誤謬と言葉のやりとりを重ねながら暮らしている。
なので、理想にくらべるとずいぶんケチくさいけれど、できあいの物語を身体に着せられそうになるたび、言葉でもってていねいに脱いでいくしかなさそうだ。

いいえ、これは前髪がじゃまだっただけ。
駆け寄ったのは晴れていたから、太ったのも痩せたのもこのぐらいが暮らしやすいから、涙が出たのはね、それほど腹が立ったから。

そうそう、先日SNSで、「タートルネックが似合うように、冬の前にショートカットにした」という投稿を見た。添付された横顔のタートルネックはたしかにばっちり決まっていて、なんてあたらしくてすてきな物語だろうと、わたしはしばらくうっとりしていたのだった。