「イケてるね!」という声は未だにかからないが、私のチャームポイントはお腹の手術痕だ。この発言に感動してほしいとか、グロテスクなものが好きだとか、そういう意味は全くなくて、半ばファッションのように、この傷を気に入っていると伝えたい。

闘病生活の中「絶対勝つ」と己を鼓舞してくれていた私の傷

私は、先天性の難病があり、生後間もなくして体が二つに離れるくらい大きくメスを入れた。涙なしに語れないことも沢山あったし、運命も自分も全てが憎らしい時もあった。

ところが、不思議と傷を嫌に思ったことはなかった。真っ新なお腹を見たことがないので、私にとって傷のある状態が普通だったというこもあるかもしれない。

しかし、それだけではないように思う。上手く表現できないが、当時の自分にとっては、血判状のようなものだった。先の見えない闘病生活の中、死に抗う度に増える傷は「絶対勝つ」と己を鼓舞しているようだった。

いくつもの峠を越えた末、間一髪のところで移植手術のチャンスが巡ってきた。そして、成功という幕引きに相応しい大きな傷を纏った。左右の脇腹を結ぶような長い一本。それに交差して、みぞおちから恥骨近くまで続く一本。更には、下腹部を駆ける一本。丁度、胴全体に漢字の「士」が描かれたようになっている。管を通した穴も所々に残った。思い出したくもない痛みを伴ったが、これは未来が約束された自分のハレ姿だった。

私はお腹の傷を「忘れ形見」として、今も大切に纏い続けている

それから20年間、病床で止まっていた時を巻き返すように毎日を過ごしている。病気が嘘だったかのように、外見も中身も変わった。

そして、血判状の役目を終えた傷は、過去の自分の忘れ形見として今も大切に纏い続けている。荒々しさと儚さが紡ぐ唯一無二の世界が投じられた大作だ。私はこれを「エッジの効いたデザイン」と自負している。

しかし、周囲の反応は複雑だ。傷が目に触れるまでは普通の扱いだったのに、途端に「可哀想な人」と哀れんだ目で見られるのは少し寂しい。更には見たことを謝られることもあり、こちらが申し訳なくなってくる。

そして残念ながら、時々感じるのは嘲笑の目だ。恥じる理由はないので傷つくこともないが、反応に困る。私はこの姿が“本来”で、この姿が「好き」なのだ。小さいとはいえ、同じく傷を伴うピアスやタトゥー、美容整形とは何が違うのだろう? どれもなりたい自分になるため、今の自分をより良くするための手段だ。

今までなかったもの、少数派なものも、自信を持って表に発信すれば、個性として認められやすくなった今日この頃。傷もそのカテゴリーに溶け込めたら良いと思う。そんなことを考えながら、躊躇なく温泉に入り、海にはビキニを選んできた。「わ、すごい傷!ワイルド!」なんて率直で明るい言葉が聞けた日には「そう、一点物!」と喜んで答えたい。

私のお腹の傷は、問題でも欠点でもない「生命力の塊」だ

今のところ一番の感想をくれたのは、後の夫となる彼だった。第一声は「お、プラレール走れそうね。線路みたい」何の取り繕いもない言葉に痺れた。過去の恋人がくれた「俺は気にしないよ」という優しい台詞より、遥かに。何故なら、これは問題でも欠点でもないのだから。

時代が流れ、ファッションの流行が移ろう中で、“生命力”がもてはやされる時が来たら面白い。このハレ着を表に闊歩すれば、私は生命力の塊だとしてファッショニスタになれるはずだ。

この空想がいつ現実になっても良いようにと、毎晩少しずつ腹筋をして備えているというのは、ここだけの話である。

散々自論を述べたところで、あることに気づく。このエッジの効いたデザインは、恐らく私の性格に通ずるということを。