高校時代、体育でバレーボールの授業があった。先生がみんなの前で何かの技を教える時「手のひらの分厚いところで打つように」と、手で"この辺"と分厚い部分を見せながら説明した。

私だけ手のひらを見つめていた。周りの「細いね」が不思議だった

私は自分の手のひらを見て、衝撃を受けた。そのまま何秒か止まってしまった。どこをどう見ても、分厚いとされる部分が薄かった。周りのみんなが技の練習を始める中、私だけ手のひらを見つめていた。

昔から、周りの人に「細いね」と言われることは多かった。でもその言葉は挨拶だと捉えていたから、深く気にしたことはなかった。そもそも私は他人より痩せているのか、はっきりと理解できていなかった。見慣れている自分の体は、自分にとって普通の体型だった。周りの人が私の体のどこを見て細いと言っているのか不思議だった。

だから、バレーボールの授業で手のひらの薄さに気づいた時は本当に驚いた。あの時、私以外に手のひらの分厚い部分を探している人はいなくて、そのことにも驚きだった。
私はみんなより痩せているのかもしれないと、初めて自分の体を客観的に見ることができた。もう一人の自分と目が合ったような感覚が忘れられない。ああ、そういうことだったのか、と周りの人から細いと言われていたことに納得できた。

自分の体が細いと分かってから、他人の言葉を気にするようになった

自分の体が細いと分かってから、それまでは気にならなかった他人の言葉を気にするようになった。
今年に入って「ちゃんとごはん食べてる?」と言われたことが何度かあった。その言葉は「もっと食べた方が良い」という意味に聞こえた。少食だからあまり食べなくても大丈夫だったが、毎食しっかり取ろうと決めた。
二週間ほど続けた頃に、食事を取ること自体が嫌になった。体質的に太りにくいこともあり、外見に変化はなかった。これ以上続けるのは無理だと思い、諦めることにした。

他人の言葉に敏感なことは事実だ。でも私が気にしていたのは、言葉そのものではなく、"私が私の体を見る視線"だったと感じる。
周りの人が「細いね」と言う時、私自身の視線がその言葉の味方をしていた。言葉よりも冷たい意味を含んで、私が私の体を見ていた。

「ちゃんとごはん食べてる?」と言われた時に「もっと食べた方が良い」と思わせていたのは、私自身だった。私の体が細いことは私が一番分かっている。だからこそ、私が私の体を見る視線は、誰の言葉もその通りに思わせる力を持っていた。

結局のところ、私は私の体があまり好きではないのだと思う。この体で生きていくしかないけれど、自分の体に冷たい視線を送るのをやめる方法が分からない。多く食べることは諦めたはずなのに、もっと食べた方がいいかもしれない、どうしたら太れるか、と考えてしまう自分がいる。
また誰かに「細いね」と言われた時に、「でもこの体も悪くない」と私に言ってもらえるようになりたい。