トレーの上に置いたレモンサワーは、すでに薄まって水割り状態だった。ジリジリと焼けるような熱が、白い砂からビーチサンダルへと伝わる。水着を少しずらすと、肩にはくっきりと線が出来ていた。顔をあげ、海の眩しさに目を細める。「水を浴びてくる」と駆け出して行った友人が、海の中で大きく手を振っているのが見えた。その瞬間、まるで海中で浮力を得たかのような感覚に襲われた。スローモーションで流れていく光景に、過去のあの日が重なっていく。その日、日焼けで水着の跡が残ることはなかったけれど。

コンビニの鏡に映った二の腕と肩。水着姿、という単語に手が汗ばむ

あの日も灼熱だった。Tシャツの下に忍ばせた水着は、すでにうなじの結び目から湿ってきていて、我慢ならずコンビニのトイレに駆け込んだ。汗ばむ肌にまとわりつく長い髪の毛を結って、鏡を見つめる。そこに映ったのは、太い二の腕と広い肩幅が、隠れ所を失った様だった。

『もう少しで着く』
携帯電話に映し出された通知に、急いで髪をほどき濡らした手で整える。 駅前に戻ると、小学生のような恰好をした彼が缶ビールを2本持って立っていた。私を見つけた彼はニコッとし、缶ビールを開け始める。

「未成年はお酒飲んじゃいけません」
そう声をかけると彼はくしゃっと笑い、この短パン涼しいんだよ、と言いながら缶ビールを私に渡した。
「私、水着を着て海に行くの久しぶりかもしれない」
「そうなの?夏といったら水着のギャルと海でしょ」
おっぱいは正義だからなあ、となぜか天を仰ぐ彼に呆れて、海岸へ続く橋をいそいそと歩く。 不貞腐れた私の機嫌をとるかのように、彼はスッと手を握ってきた。

「宇海は可愛いからそのままでいいの!初水着姿かあ。楽しみだなあ」
水着姿、という単語に手が湿気を帯びる。私は今日、このTシャツを脱ぐことができるんだろうか。日が照り付ける海岸で、大好きな彼の前で。

黒い渦はぐるぐると私に呪いをかけていく。好きなのに、好きだから

「ねえ海入ってこようよ」
砂浜に着いて2本目のビールを空けていると、すぐその時はきた。入ってきていいよ、とビールを喉に流し込んでいると、俺も飲んでから行く、と彼はレジャーシートに座りなおした。横目でチラッと見ると彼もこちらを見ていて、急いで前を向く。海岸沿いで戯れている男女は、濡れた肌に太陽が照り付けていてなんだかすごくキラキラしていた。それとは反比例して、黒い渦はぐるぐると私に呪いをかけていく。

「…私もあのギャルみたいに、スタイル良くなりたいのになあ」
とめどなく溢れた呪いは、捨て鉢となって口をついて出る。
「あー。あの白ビキニの子ほっそいね」
「私は胸も微妙だし、脚も太いから」
「そんなことないよ」
「肌も綺麗じゃないし、骨太だからどうしたってむっちりしてるように見える」
「気にしたことないけど」
「色気があるって言われるの、ほめ言葉には聞こえないし」
「…もういいよ。やめて」
そう言い立ち上がった彼の顔は嫌悪感で溢れていて、首に汗が伝ったのを感じた。

まあ気にしてないけどね、と干からびた後付けを加え、タオルを手に取り汗を拭く。本当に私は、どこまで可愛くないのか。夏の日差しを目の前に、私はコンプレックスだらけの身体を出すことができない。好きなのに、好きだから、好きな人の視線に耐えられない。好きな人の視線に耐えられない。後悔と羞恥が脳内を支配していた。

「俺、好きな人の悪口言われるのすごい嫌なんだけど」
涙を落とす可愛さすら持ち合わせていなかった私に降ってきたのは、 彼の語尾を強めた口調だった。いつの間にか仁王立ちをしていた彼は、「嫌だけど」と続けて声を張った。

Tシャツを脱ぐことはできなかったけれど、彼は本当に有言実行だった

「好きな人のいいところを伝えるのも俺!今に見ててよ、俺といたら絶対自分を好きになる」
そう言い放つと、彼は突如海に飛び込んでいった。あっけらかんと見ていた私に、海の中から大きく手を振っている。ぼやける視界の中で見えた彼は、脳に焼き付けられ、即座に白黒の思い出として刻まれた気がした。「自分で言って照れるなよ」。思わずぼそっと出た強がりは、何かが変わる予兆に慄いていたからかもしれない。

私が今見ているのはキラキラ輝く海と、水着の跡がくっきりついた自分の身体。彼は本当に、有言実行だった。付き合って初めてふたりで行った、あの海の日。私はその日、Tシャツを脱ぐことはできなかったけれど、彼とはそれから2年付き合った。彼は私の魅力を常に口に出していた。友人の前だろうが、母の前だろうが、どこであろうと私を褒めたたる。外見も内面も。そんな彼が注いでくれた愛は私の自信となり、コンプレックスだらけの身体を好きだと思えるようにまでなった。

私に魔法をかけてくれた彼は、いま、どんな女の子に魔法をかけているんだろう。これって、いつか消えてしまうものなのかな。この魔法が逃げていかぬよう蓋をして、奥底に眠らせたまま、かかってることすら忘れる日がくるのだろうか。

海辺で手を振っていた友人がこちらに歩いてくる。黒く濡れた肌は、まるであの日の思い出を纏っているみたいだった。私の身体も、彼の視線にコーティングされていたのか。そう思うとなんだか面白かった。魔法が消えようと構うもんか。これからは私がこの身体に視線を向けていくのだから。