世の中の大抵の問題は資本の力でなんとかなる。
だが万人にとっての平等だけは難しい。
平等な社会は倫理的な観点からだけでなく、文化をより大きく繁栄させるためにも必要な要素だ。
本当の平等とは、あって当たり前の違いを消す事ではなく違いをパズルのように生かし合う事では無いだろうか。
勉強が分かる子と分からない子によってできる公立学校の形
総理大臣だからこそできる改善方法がある。国のルール作りだ。
格差社会を仕切に叫ぶが、格差自体は「正しい努力」が反映されていればあって当たり前のことだと思う。
出自や性別、年齢などによって可能性に柵を作ってしまうことが問題だ。
こう考えるのは地方の公立小学校で育った私の現体験からだ。
小学校入学時保育園でのびのび育った子もいれば、すでにひらがなカタカナの読み書きができて論理的に話す子もいる。私は後者だったが母に愚痴ったのだろう。先生の教え方を観察したらどうか、とアドバイスされたのを覚えている。私の他にも公文に行っていて掛け算ができる子もいた。
そういった子たちで分からない子に教えるという構図が公立の形だ。
両者メンバーは中学校までほとんど変わらないが、最初は家庭での教育が無くても教える側の子がいた。そういう子たちが教える側で無くなっていく。
分からない子が同級生に教えられる状況に負い目を感じたり勉強が嫌いになる。
先に進んでいる、もしくは教えられたらすぐ飲み込める子が天井を押しつけられる。
勉強だけが学校の目的でないにしても、お互いの居場所はそこで合っているのだろうか。
公立学校の構成や考え方にも多様性を取り入れたい
まず年齢によるクラス分けを辞めるべきだ。
ホームルームクラスや課外活動は一緒に入学した子供たちで、座学はそれぞれの理解度に応じてクラス分けする。
覚えられない子には覚え方から教えれば良いし、吸収する仕込みがされているなら次々教えればいい。
得意な教科だけ伸びるのならそれはそれで良い。それがその子の可能性だ。
教員も大学を出てすぐ先生になった人だけで無く、一度企業で働いたり海外を放浪した人など背景に色を持たせるべきだ。家族以外に接する大人は限られているのだから。
男だから養わなければいけないとか女だから文系だとか、そんな主観的な押し付けも無くすべきだ。そのためにも学校内の大人に多様性が必要だ。人は染色体によってできるのではなく、染色体が経験と知識によって調理され出来上がって行く事は分かっているはずだ。
義務教育は、それぞれの子供の可能性を平等に育てる場に
公立の義務教育という、入学基準が無い場所は最初で最後の平等に与えられる機会だ。
そこで平均を追求した不平等や、偏った主観を押し付けることは国にとっても不利益では無いだろうか。
ましてやそこに家庭の資本の差や性別での柵を刷り込まないで欲しい。
無意識な選択の制限がある事にどれだけの人が気づいているだろう。貧乏だから、女だからと育ったが、だから何だというのだ。
大人になれば、諦める事も自分で選択したことになる。
子供の頃に諦めに慣れさせては「正しい努力」が出来なくなってしまう。それこそが格差の源だ。
選択の可能性は制限できるものではない。
産まれながらに平等なのだから。