『大丈夫ですよ。産後の抜け毛に悩む女性は多いですが、あれは産前に抜けしぶっていた分が産後一気に抜けるだけです。在るべきものが無くなるわけではなく、無くなるべきなのに残ってたものが無くなるだけだから、心配しなくて大丈夫です。怖いですよね。でも、大丈夫』
正直、怖かった。この髪だけがわたしに自信を与えてくれていたから
臨月になり悪阻が落ち着いてきたわたしは、大きなおなかを抱えて美容室に来た。
「なるべく産後に手入れが楽な髪型にしたいけど、[分娩後脱毛症]というものがあるらしいのでそれが目立たない感じにしてほしい。」
わたしの膝もとに分厚いブランケットをかけ、ノンカフェインのコーヒーを持ってきてくれた美容師さんにそう告げると、 柔らかい笑顔とほんの少し小さな声で「大丈夫ですよ…」と[分娩後脱毛症]の仕組みを丁寧に説明してくれた。
正直、怖かった。すごく怖かった。今までずっと綺麗な髪だけがわたしの取り柄だと思っていて、この髪だけがわたしに自信を与えてくれていたから。産後に体がぼろぼろになる上に髪も失なってしまったら、なんだか自分まで失なってしまうようで、不安でたまらなかった。
だから、美容室に入ってからオーダーするまでずっとこの気持ちをどう伝えればよいか分からなくて、拳を強く握りしめて震えていたのだ。鏡には泣きそうな顔のわたしがいた。
美容師さんの「大丈夫ですよ」には不思議な安心感があった。わたしの指は自然にほぐれて、コーヒーをひとくち飲んだら体の震えも落ち着いてきた。
今まで好きだった自慢のロングと、今日で一旦さよならすることにした
シャギーたっぷりで軽やかだけど艶がしっかりと分かる自慢のロングヘア。今までこの髪が好きだったけど、今日で一旦さよならすることにした。美容師さんと相談して決めた新しい髪型は、重めのワンレン前下がりボブ。
今より手入れしやすく抜け毛が気になりにくいように仕上げてもらった。
鏡をみると、そこにはさっきまでの鬱々としたオーラなんて嘘みたいな晴れ晴れしい表情のわたしがいた。
新しいわたし。
母になるわたし。
[たかが髪型を変えただけ]だけど、わたしの覚悟が決まった瞬間だった。
無事に出産を終え、昼夜問わず無我夢中で新生児育児に没頭していたわたしは、浴室の排水溝詰まりによって忘れかけていた[分娩後脱毛症]のスタートを悟った。
週1だった排水口掃除は毎日になり、週1だった掃除機がけは1日3回になった。それでもふと床を見ると髪がごっそり落ちていた。
ここまで抜けるとは予想外。でもそれほど悲惨には感じられなかった
シャンプー中になにげなく両手を擦り合わせてみたら、テニスボールサイズの毛の塊ができた。
ここまで抜けるとは予想外だったが、鏡を見てもわたしの頭はそれほど悲惨なようには感じられなかった。
おでこが少し広くなったが、重めのワンレン前下がりボブは全体的なバランスが崩れることなく艶めいていた。
あの時、美容師さんが [分娩後脱毛症]に怯えるわたしを笑ったり適当にあしらったりせず、真剣に受け止め、寄り添い、丁寧に説明して、一緒に対策を考えてくれたおかげで、わたしはわたしを失なわずに済んだ。
今まで色々な美容室を渡り歩いてきたが、これからはこの美容室に通い続けようと決めた。
これから先、年齢を重ねるごとにわたしは様々な髪問題に直面するかもしれない。そんな時は、ひとりで悩んで怯えずに、この美容室へ足を運ぼう。たかが髪、されど髪。わたしはこの髪と、この美容室と生きていく。