違う家庭で育った2人のおとなが一緒になるときは「ふつう」のぶつかり合いである。
例えば炊飯器のお米の混ぜ方。夫の実家では炊き上がったお米を混ぜるときは、自分が取る箇所しかしゃもじで混ぜ合わせないらしい。パカっと蓋を開けたとき、真っ平らなほくほくの白い草原の片隅がちょこっとほぐしてあるだけで驚いた。わたしは母親から全体を混ぜろと言われて育ったけど……まあいいか。こういう文化の違いがちり積もって離婚するんだろうなあ。

自身の「ふつう」信仰から逃れられなかった。夫の一言にびっくり

お米のことから人生の価値観まで。20何年間を違う場所で生きてきたのだから「ふつう」が違うのは当たり前だ。それは時に別れのきっかけになることもあれば、自分の根本が覆されることもある。

今年、わたしは新卒で入社した大企業を辞めることをいつまでも躊躇していた。24時間絶えずアップデートされる仕事の連絡で身体は限界だった。
いや、でも「ふつう」はみんな我慢している、もっとブラック企業に勤めている人もいる、ふつうの会社員は理不尽な目にあっても流すんだ。こんな思考が延々と脳みそをループして、自身の「ふつう」信仰から逃れられなかった。
夫に一言言われた。

「嫌ならやめればいい。なんでそんな環境を我慢するのか分からない。我慢していいことがあるの? 一度きりの人生だから楽しんでよ」

わたしが「ふつう」から逸れることは、親を裏切ることだった

人生を楽しむ? そんなふうに考えたことがなかったのでびっくりしてしまった。
我慢すること、耐えることは美徳だと思い込んでいた。だってみんな耐えているのだから。一度きりの人生を世の「ふつう」に照らして生きていた。

生きていくなかで形成されてきた「ふつう」にひたひたに浸って過ごしていると、それ以外の選択肢なんてまるでないように思う。わたしの「ふつう」は両親からの影響が色濃く、ふつうから逸れることは親を裏切ることだった。
「どんなひとにも優しく、いい大学へ、大企業が安心、ひとさまに迷惑をかけない」

夫は小さい頃から「みんなと同じ道を選ぶな」と言われて育ったらしい。世間と同じ道が大好きなわたしの実家とは大違いだ。夫は、小さい頃は滅多に家族で外食や外出はしなかったし、あまり芸術や文化に触れる機会もなかったようだ。でも、家族仲はよくて楽しそう。わたしの実家とは逆だ。教養や文化があれば幸せになると思っていた……。

突破口を探すために、本能的に考え方の違うひとを選んだ気もする

わたしと同じような価値観を持ったパートナーと一緒になっていたら、危機的な状況でも自分の「ふつう」にとらわれて選択肢は狭まり、どん詰まりになっていただろう。
自力ではそこから抜けることはできなかった。突破口を探すために、本能的にわたしとは考え方の違うひとをパートナーに選んだ気もする。
とはいっても、たまに夫も彼なりの「ふつう」に縛られているんじゃないかなと思うこともある。俺が一家の大黒柱になるんだ!って。そんなに背負わなくてもいいんだけど。いつか休ませてあげられればいいなと思う。

2人の「ふつう」が似ていると交際は続きやすいかもしれないが、同じすぎてもつまらない。なにかにぶち当たったとき、2人が違う見方を持っている方がこの不透明な世を生きる選択肢が増えるのではないだろうか。人生の眺めが違うときは、革命だ。