●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「恋人以上、友達未満」

今日会える?という連絡がきたのは17時頃で、そのメッセージを受けた高揚感の直後に襲ってきたのは、よりによってこんな格好の日に、という小さな絶望感だった。

残っている仕事を半端に終わらせて、先輩による「ふうん先帰るんだ」という恨めしい目を傍目に、堂々と「お先です」と言って見せてから17時15分には会社を飛び出していた。

職場の近くにあるマルイに着いたのが17時30分、その15分後には四階の靴屋で安いけれどそれなりには見えるハイヒールを購入し、店員にそのままこれ履いちゃいますと告げて、履き潰したスリッポンはショップバッグに隠すように忍ばせた。

どう考えても靴擦れ必至、絆創膏を買って帰らなければならないと覚悟しながら固いフェイクレザーのハイヒールを履いて、パウダールームがある二階へと向かった。エスカレーターを降りて二階に着くやいなや安価のアクセサリーショップが目について、華奢な縦線が揺れると綺麗だったゴールドのピアスも買った。18時を過ぎていた。

早足でパウダールームへ向かい携帯用のヘアアイロンを取り出し、前髪と顔まわりだけを軽く伸ばし直す。なくなりかけた眉尻を描き直してから、アイシャドウをいやらしくない程度にまぶたにのせていく。時計を確認すれば18時半を差していて、あ、あと30分ある、と、腹を括るようにして鏡を睨み直し、過不足ないよう細心の注意を払いながらコンシーラーにハイライト、チークやマスカラを、気合が入っているとばれてしまわないように、慎重に肌へとのせていった。いや、やっぱり毛先ももう少し巻こうかと思い直し、またヘアアイロンの電源をオンにした頃、新着メッセージが1件あります、ごめんやっぱり今日厳しいかも、また今度にしよう、という文字の整列を目の当たりにし、頭のてっぺんから空気がぷすっと抜けた。

時間を置かぬまま、分かった、またね、と、嫌味なほどにごきげんな絵文字まで添えて返信をして、じりじりと上がっていくヘアアイロンの温度を眺めながら、ついでだと思い、のろい手つきで毛先を巻いた。

蕎麦を食べたかった…わけではないこと、わかっているけど


「ちょうど蕎麦食べたかってんな」石見はそう言いながらざるそばを覗き込むように眺めて、箸をパチンと割った。

「ちょうど蕎麦が食べたい事なんてある?」
「あるやろ、ほんまはカツ丼が食べたかったけど」
「カツ丼じゃん」
「まあな」
そう言って石見は麺を大雑把に箸でつまみ、つゆの中にすとんと落とした。

フードの形が崩れていない石見のパーカーの胸元には私でも知っているようなストリート系ブランドのロゴが貼り付いていて、蕎麦を口に運ぶ手元に巻きついたごつっとした黒いカジュアルな腕時計は自分の職場では到底見かけないようなものだった。黒い直毛のさらっとした長い前髪を鬱陶しそうにかきあげながら、石見は蕎麦をすすっていく。

「今日は何してたん」
「仕事だよ」
「なんか買い物してるやん」
「靴買っただけ」
「ふうん」
「絵はどう?売りさばけた?」
「あんな、売るのが俺の仕事やねんから。俺ってエースやねんで。ほんまやったら翠さんと飯食うてるような男ちゃうねん。アンミカとかと飯食えるような男や」
「アンミカ?」
「ん?アンミカちゃうかったっけ?アンミカってどんな人やっけ?」
「美人だけど関西弁の、なんか元彼がスパイだったみたいな人」
「ほんまにどんな人やねん」
たはっ、と石見は笑って、また蕎麦をずずっとすすり、美味い、やっぱ天ぷらも頼んだろかな、と言ってメニューをさっと手に取り、しばらく眺めた後で、高いな、と呟いたので思わず私も笑ってしまった。

「この蕎麦屋って翠さんとしか来えへんわ」。ビール三杯を飲み終えて、芋焼酎水割りに切り替えたばかりの石見がそう言った。私はといえば、二杯目のビールが半分くらいのところからまだ進まずにいる。

「蕎麦屋どころか、池袋あんまり来ないでしょ」
「うん、めっちゃ遠いし。あと俺池袋あんま好きちゃう」
「よく来てくれるよねほんと」
「俺がなんでこんなとこまで来るか考えたことあるんかえ」

石見は憮然とした表情で、追加で頼んだかぶの浅漬けを切り離しながらそう言った。私はすぐに、ただで蕎麦食べれるから、と言った。
「あほか、蕎麦くらい自分で食べれるわ。エースやねんぞ」
石見がそう言って大げさに睨みをきかせた顔を見せてきたので、私はまた笑ったけれど、その瞬間に顔の横で揺れるピアスを感じて鬱陶しくなり、素早く手を耳にかけ、ピアスを取って雑にテーブルの上に置いた。

「靴、どんなん買ったん」
「ハイヒール、安物だよ」
「え、うわ、翠さんの靴、それ汚すぎるやろ」
石見が私の足元をのぞいて、また大げさに驚いて見せたあとで、やばあ、と言って笑った。

「仕事行くだけだからスリッポンで良いんだもん」
「ようそんな靴で俺のこと誘ってきたな」
「靴関係ないじゃん」
「うん、靴は関係ないわ。サンダルでも裸足でもいい」
そう言って石見は短くなったたばこを灰皿にじりっと押し付けて、ゆっくりと私を見た。

思わず目を逸らしてしまってから、あ、と思ったけれど、じゃあ今度は裸足の時に誘う、と、笑ってみせた。その瞬間、テーブルの上に置いていたスマホが震え、新着メッセージが1件あります、今終わったんだけどやっぱり今日どう?、という文字が目に入り、ゆっくりとスマホを裏に向けた。
「私も芋焼酎飲もうかな」
「飲まれへんやん」
「飲めるよ」
「これちょっと飲んでみや」

石見が自分の持っていた陶器のグラスをそのまま私の方へ向けてきたので、そのままグラスを受け取り一口飲むと、芋焼酎の香りが鼻のあたりにぬるっと貼り付いた。うん、やっぱり私はビールにする、と、言うと、飲まれへんだけやろと石見がまた笑って、私の手からゆっくりとグラスを奪った。

「翠さん、今度さ」
「うん」
「いや、まあ、蕎麦以外のもん、食いに、どっか行こうや」
目線を落としながらそう言った石見から、ふてぶてしい緊張を感じざるを得なくて、でも私はその緊張にまるで気付いていないようにして平然と、そうだね、と返すほかなかった。

そう言ってくれるあなたを好きになれたなら、どれほど単純に時間は動いていくだろう

ピアスを外して、汚いスリッポンで、パウダールームで伸ばし直した前髪などどうでもいいとばかりに飲み始めて1時間経った頃にひっつめにしてしまった髪型でも、そう言ってくれる石見を、好きになれたら、どれほど単純に時間は動いていくだろうか。

石見の切れ長の目元も、綺麗な指も、裏返しのような愛想のない態度も、欲しい言葉をくれるところも、魅力的に感じているしいつだって救われているのに、どうして石見じゃいけなくて、石見の気持ちに応えられないことも分かっていて、気が滅入った時だけ呼び出して、蕎麦を一緒に食べてもらっているのか。

彼に傷をつけられることがなければ、石見を必要とすることもないのだろうか。ぬるくなったビールを一口なめるようにして飲んで、そろそろ行こうか、と言ってから、スマホを手に取って、今から行く、と返事をした。