「普通はな、出来るんよ」。もう耳にタコ出来るくらい言われた言葉。あー、自分って「普通」じゃないんや。何度も言われて蓄積されたそれは、歳を重ねるにつれて「自己否定」という名の化け物になった。
日常には答えが「時と場合」によって変わる問題にあふれている
スーパーで袋詰めが出来ん。私の「普通じゃない」人生は、そこから始まった。二十一歳になった今も、正直うまく袋詰めが出来た試しが無い。重いものを一番下に入れるという「正解」は知ってるけど、「応用問題」が出されたら解けない。ペットボトルを二本と卵を買った時、ペットボトルは立てて入れるべきなのか、寝かせるべきなのか。さらにそこに大根が入ってきた場合はどうなるのか。
国語の授業に出てくる、作者の気持ちを答える問題。あいつは簡単よ、それっぽいことを書いておけば何点か貰えるから。けど、正答が「時と場合による」日常の応用問題は難しい。日常において、三角ってのは貰えない。丸か、バツか。そのどっちかしかない。そのくせ、「時と場合」によって変わる答えを出さなければならない問題が多すぎる。
「いや、答えが無い物に正解も間違いもないやろ。現に貴方の言う正答が『時と場合によって変わる』問題に、大多数の人はちゃんと答えを出せとるやないけ」
と、誰かから突っ込まれそうやな。
まあ、仰る通りなんよね。
「普通」の人は、最適解を何故か出せる。「底」の無い物を幾つ買ったとしても、一番体積が小さくなる方法で袋詰めが出来る。個人差はあれど、とりあえず丸が貰える答えを大多数は出すことができてる。
「普通」に縛られ「失敗」を恐れ、「何もしない」を選んだ
じゃあどうして私は出せないのか。答えは簡単。
「普通は出来る」という言葉に縛られすぎたから。
「普通」になりたかった。呆れられ、失笑され、諦められてきたから、どんなに足掻いてでも「普通」になりたかった。「普通」になるためにはどうすればいいのか必死で考えた。「普通」になれない私が出した答えは、「失敗しないこと」だった。出来る限りを尽くして、失敗しないように努力した。
でも、失敗しないようになんか出来ん。絶対に失敗はするんよ。
だから、失敗する度に絶望した。やっぱり私は「普通」にはなれへんのかと自覚して、心の底から自分という人間が嫌いになった。そしてついに私の体は、「失敗しない」ために「何もしない」という答えを出した。
過去に失敗した経験のあることをしようとした時、手が震える。高い所に上った時みたく足がすくむ。体全体が、挑戦することを拒否するようになった。だけどそれは他の人には分かってもらえない。「甘え」の一言で片付けられてしまう。ますます自己嫌悪に陥る。それが引き金になって、また失敗する。「成功体験」ではなく、「失敗体験」だけがかさんでいく。
でも、これが私の「普通」 「普通じゃない」なんて笑わないで
だから知ってほしい。
これが私の「普通」。
多分誰にも届かんし、これから先もずっと分かってはもらえないと思ってる。でも、もし届くんなら知ってほしい。
私は、「普通」にはなれない。失敗を恐れて、最適解を見いだせず、立ち向かいたくても体が拒否する。これが、私の「普通」。出来うる限りの努力をする度、後悔と失敗が積み重なるけど、これが私の「普通」。
大多数のように上手には生きられないけど、これでもギリギリなんとか生きてる。どうかこの不器用な生き様を、「普通じゃない」なんて言葉で笑って済まさないでくれ。