好きな異性がいる。でも、まだ付き合えていないから彼の嗜好を把握し、愛されるための作戦を練らなければならない。恋愛の基本だ。ところが、全く上手くいかない。

「ありのままの私を好きになってほしい」

彼が好きな「可愛らしい女の子」と自分との比べっこが始まる

“ありのまま”とは、自分の欲求をすべて吐き出した状態ではない。好きなことを好きだと言い、嫌いなものから逃げることだ。好きなことを好きなだけやった結果、私は大学院で教育学を専攻している。嫌いなものから逃げた結果、4年間の教員生活に終止符を打った。休職せざる得ない状況にまで精神的に追い詰められ、逃げたのだ。そして、“学ぶこと”に希望を見出した。これが、現在の私だ。

しかし、彼が好きなのは、可愛らしい女の子。つい助けたくなるような、隙のある子。人前でも「仕方ないなぁ」とクスっと笑いながら、身体を触らせてくれる子。彼が、可愛らしい女の子を愛でているのを見るほどに「ありのままの私を好きになってほしい」という欲望が大きくなる。

この欲望をどこに向かわせるのか。可愛らしい女の子と自分との比べっこが始まる。顔、スタイル、学歴、社会性などの項目をつくり、自分のほうが全てにおいて勝っていることを確認する。項目はどんどん追加されていく。

彼に愛されたいけど、それは「自尊心」を満たす手段でしかない

この比べっこに優勝すれば、彼からの愛が得られるのだろうか。そんなわけがない。恋愛の基本に立ち返ろう。彼の嗜好を把握し、作戦を練らなければならないのだ。嗜好は把握できているとしても、作戦が練られていない。可愛らしくなるための工夫、隙を見せるための所作、人前で身体を触わられても受け流せる余裕について、勉強する必要がある。話はそこからだ。

彼に愛されたい。なのに、彼に愛されるための努力を頑なに拒んでしまう。なぜなら、彼に愛されることは、自尊心を満たす手段でしかないからだ。比べっこをするのは、愛すべき自分のプライドを保つため。『山月記』の言葉を借りれば、“臆病な自尊心”を太らせ続けているといえるだろう。李徴は、虎になってしまった。この恋愛を続けている限り、私も虎になってしまうかもしれない。

欲望に忠実であることは、実はとても楽なことで、畜生と変わらないからだ。虎であれば、このエッセイを、彼からの愛が得られずに苦しんでいる恋愛ストーリーに仕立て上げることもできる。が、人間に踏みとどまろう。そうすると、このストーリーは、ただの茶番であることがわかる。

もう「人生」という舞台で、孤独な茶番を繰り返したくない

要するに私は、“臆病な自尊心”を太らせ続けるのが、愉快で仕方がない。だから、彼に恋をしている。書いた通り、彼との恋愛の中では、太らせるための仕掛けが山ほどある。仕掛けにハマるほど、世界で一番不幸な私になれる。他人を傷つけても、一番不幸な私という免罪符によって、罪悪感を持たずに済むという特典付きだ。彼も可愛らしい女の子も、私の茶番に付き合わされているだけの存在だったのだ。

最後に、私を人間に踏みとどまらせているものについて述べたい。それは、愛情だ。愛情は理性を目覚めさせ、心に“幸せ”へと導く灯を宿してくれる。もう、人生という舞台で、孤独な茶番を繰り返したくない。私が好きな私を演じたい。

そのための第一歩は、自分自身の力で、“ありのままの私”を愛する覚悟を持つことだろう。