教えてくれよ、すべての人に共通する幸せの形とやらを。幸せの絶対解を。そんなものないと思っている私に教えてくれよ。もしも、本当にあるのなら。

たった今、自分が聞いた言葉が信じられなかった。
「今、彼氏いるの?」
「ん? いないよ」
「可哀そう」

可哀そう……。え、まさかだけど、この言葉って私に向けられているの?
冗談でしょう? 幸せに暮らしているこの私が可哀そうだって?
そりゃ彼氏がいたらいたで楽しいけれど、いなくても楽しいと思っているのだけれど。

「ふつう彼氏いるよね」に生きづらさを感じる

この二十一世紀の時代に、自分の思う幸せの形を他人にも当てはめようとするなんてことあるんだ。へえ、時代錯誤もいいところだ。
一気に溢れてきた怒りの気持ち。
私が可哀そうなんじゃない、可哀そうと思われている私が可哀そうじゃないか。
じんわりとやって来る悲しい気持ち。

だけど、そんな気持ちたちをやんわりと主張することもできずに、私はその場を苦笑いしてやり過ごした。そのことも私をより一層悲しい気持ちにさせた。

とんちんかんな他人の言葉に傷つけられないように、そして後腐れのない主張ができるように私は準備しなくてはならないことをその時知ったのだ。

「ふつう彼氏いるよね」「ふつう彼氏欲しいと思うよね」
そういった言葉や流れの中に入れられると、生きづらさを感じる。
「ふつう」から少しでも逸れるとこうなるのかと、自分らしくいることが途端に難しくなる。

「ふつう」とは正しさではない。多数派というだけ。

でも、やはり自分の幸せの形だけをひたすらに希求して良いと思うのだ。
他人など知ったことではない。私の心は私だけのものだ。
ただ、私だけの心を他人に傷つけられずに生きていくことは難しい。そう思うと、未来と今の子供たちのことを考えずにはいられない。

「ふつう」とは正しさではない。多数派ということだけだ。
ただ、私たちは幼少期の教育の段階で、「ふつう」が正しいことであると錯覚させられているのだろうと思うのだ。
なぜなら学校での「良い子」の形は決まっているからだ。
一つの決められた「良い子」に向かっていく時、子供の思考と価値観は足並みが揃いがちになる。これが「ふつう」を産む。

足並みが揃うみんなの中で、外れる子はふつうではないと、良い子ではないと無意識のうちに、そうプログラミングされている気がするのだ。
ゆえに、私は教育システムを根本から変えない限り、この「ふつう」から私たちは逃れられないと思っている。

もちろん、教育システムだけの問題ではないだろう。ただ、大きな要因の一つであることは言えるのではないだろうか。
だが、残念なことに教育関係者でもなければ発言力もない私は、変革が起きることをただ祈ることしかできない。未来はもっともやもやが少ない世の中であってほしいと思うだけだ。

「ふつう」から離れて自分らしく生きるためには

そのことにもどかしさも感じるが、大きいことを言う前にまず自分の環境で堅実に強く自分を通していくことだと思っている。

それは周りの「ふつう」に縛られないこと、それもあるがもう一つ大事なことがある。
それは当たり前だが、私自身も誰かのことを私の軸に当てはめて見ないことだ。

お互いの違いを認めて、腹を割って話せば新しい見方や感覚が手に入るものだ。その時に感じる楽しさと、他者を尊重する気持ちをどんな時も忘れずにいたい。

とは言っても、「ふつう」から離れて自分らしくいるのは難しい。
私もまだ、正解だと思える自己主張の仕方や、自己防衛の方法にたどり着けていない。

だが、たとえ傷ついても苦しくても、自分らしさは失いたくないと強く思っている。
自分を偽って生きていきたくはないからだ。

いつか時代が私たちに追いつく日が来るだろう。いつの時も先駆者は苦労するものだ。
そう思って今はひたすら前を向いて、強く進んでいこう。