164cm、44kg。
これが私の拒食症だった時の身体。
164cm、66kg。
これが私の過食症だった時の身体。
ルッキズムを内面化して、自分の身体を受け入れられなくなっていた
小さい頃から、決して華奢とは言い難い体型だった。家族からの「まん丸で可愛いね」という言葉が、いつからか「まん丸だね」に変わり、そんな些細な言葉の変化にも気が付いてしまうくらい、私は自分の身体に対する周りの評価が怖かった。
「人は見かけによらぬものというけれど、やっぱり華奢で細い方がいい。その方が皆んな可愛いと言うんだから」
そんなルッキズムを内面化したまま、自分の身体を受け入れられなくなっていた。
でも高校生の私が夢見て目指したのは厳しい舞台の世界。歌やダンスに加えて容姿も重要なこの世界で、まずは痩せねばならなかった。
骨太で筋肉質。痩せても痩せても周りに気づいてもらえなかった。「すごく痩せたね!」と言われる頃には、傷つきやすい思春期の身体は悲鳴をあげ、月経は止まっていた。
そしてその時にはもう「痩せていること=自分の価値」としてしっかり刻み込まれてしまった。
誰よりも痩せていることが、舞台に立つ上での私の個性であり強みなのだと。
「痩せていること=自分の価値」。私の心は一層締め上げられていった
大学生になり環境が変わった。夢も叶わなかった。
拒食の反動でいとも簡単に過食へ転じた。それはもう面白いくらいに。私は吐くことができなかったので、とにかく下剤やカロリーカットサプリの過剰摂取を繰り返した。しかし体重増加は目に見えて早く、それが私の心を一層締め上げていった。
「痩せていること=自分の価値」
太ってしまった自分には価値がない。
「痩せていること=自分の価値」
太ったままでは誰にも受け入れてもらえない。
思えば思うほどに過食が進んでいく。
人前で食事をするのが怖くなり、1人で食べることが多くなった。直前まで友人達と笑顔で話し、別れて直ぐかき込むようにして食べるといった具合に。
今になってあの時の食生活をカロリー計算してみると、1日に3000kcal以上を摂取していた。
「もう消えてしまいたい…でも遺品から菓子パンが見つかるのは嫌だな…」と冗談のようなことを本気で考えながら過ごす日々。鬱々とするのも当然だ。
落ち着いたのは社会人になって。過食と拒食の間で綺麗な綱渡り
過食が落ち着いた(下剤やカロリーカットサプリの過剰摂取が無くなった)のは社会人になってからだ。
「外見で人を判断するのは愚かだ」と言ってくれる友人と、「今の私の全部が好き」と側にいてくれる恋人のおかげで過食と拒食の間で綺麗な綱渡りができている。
164cm、52kg。
これが今の私の身体。
幸せそうな身体である。無理に骨が浮き出ている訳でもなく、無理に脂肪を詰め込まれたわけでもない。
下腹と腰のあたりにたぷんと脂肪がついて曲線的。鳩胸で開き気味の肋骨の下からは真っ直ぐ縦に腹筋の線が入り、筋トレが習慣化した私の自慢になっている。
「こう見えて苦楽を共にしたパートナーなんです。なかなかに愛嬌があるでしょう?」という気持ちだ。
大好きな人たちと食事を楽しむと当たり前の時間を再び手に入れることもできた。
しかし、ただ一つ消えないものがボコボコと置き去りにされたセルライト。過去の遺産として太ももや腹部に今もしっかりと残っている。
1ヶ月分のお給料を出して、エステに通えば消えるかもしれない。ジムに通えば無くなるのかもしれない。
でもこのセルライトを愛せるか。
窮屈に縮んで盛大に膨れた後の、しゅんと萎んだ私の身体。葛藤の名残り、復活の証。
このセルライトを愛せるかどうか。
それが私とルッキズムとの訣別の時になると信じて、今日もぷよぷよとお腹まわりをつまんでいる。