幼い頃から、変な子だと言われる事が多かった。趣味嗜好や突飛な行動を指摘される事も多いが、中でも特に強く指摘されるのは相手の求めている事に対してうまく答える事ができない、コミュニケーション能力の欠如だ。

「普通」には程遠い。周りと私には、乗り越えられない隔たりがある

 相手の求めている返答をする事が出来ず、話をうまく合わせる事もできない。興味のない会話においてはつまらないという気持ちがそのまま態度に出てしまう。それ故にいじめとまではいかないが、一緒に遊ぶ事を拒否されたり、陰口を叩かれる事は多く経験した。

 相手が不快に思っている事はなんとなく分かるし、どう振る舞えばよいかはマニュアル的に理解したが、面と向かって話すとマニュアルは全て吹き飛び元の木阿弥となる。

 周りと私には透明な壁のような隔たりがある。一見問題なく交わっているように見えても、私にはどうあってもそれを乗り越える事はできないし、歩み寄る事すらできない。私は「普通」には程遠い。だから、心地よく受け入れてくれる場も人もない。それでも何とか「普通」にしがみつこうともがいてしまう。これはきっと生涯抱えて生きていかなくてはならない苦しみなのかもしれない。未成年の私はそんな事を考えながら生きていた。

 そんなこんなで周りとの違和感を覚えながら成長し、大学卒業後、就職のために大阪へ引っ越した。東北の片田舎から大都会へ行ける。環境が変われば自分も変化できるかもしれない。そんな期待を胸に抱いて、私は新生活を開始した。実際、大阪はすごかった。想像以上だった。

もう訳が分からないけれど、これが刺激的な大阪の日常だった

 新入社員は府内に点在する支店に振り分けられる。会社の近辺には借り上げの社員寮があり、既婚者以外は基本的に寮に入る。私が最初に住んだのはとある下町だった。田舎育ちの私にとって、そこでの生活は刺激の連続だった。朝は道路工事のお兄さんたちの怒号が目覚ましとなる。「殺すぞボケ」等物騒なワードもしょっちゅう聞こえてくる。通勤路には謎の露店がある。使い古された靴やカビの生えた日本人形なんかが売られている。ちなみに店員はいない。大量の空き缶を積んだ自転車が行き交い、会社に到着するまでに路上で寝ている人を何人か見かける。朝もなかなか刺激的だが、夜はもっとすごい。帰路に就くのは大体22時前後だったが、その時間になると何故か犬の散歩をするご老人がたくさん現れる。ブルーシートで補修された家からリズミカルな太鼓の音が聞こえてきたり、公園に首輪を付けられたお姉さんが四つん這いになってたりする。もう訳が分からない。けれどもこれがこの町の日常らしいのだ。

 思い悩んでいたコミュニケーションについても、大阪の人は刺激を与えてくれた。信号待ちでたまたま近くにいた私に生い立ちを語り尽くすおばあさん。俺は酒を飲まないから善人だと、缶チューハイを持ちながら力説するおじさん。いきなり引き戸の開け閉めを指導してくれるお姉さん。ビジネスバッグを使ったサッカーを繰り広げるどこかの社員の方々。皆さん、ストロングスタイルの交流を図ってくるのだ。私がうまく会話できていない時も、「何言うてはるんですか」とスパッと打ち切り、次の話題へシフトする。それは心象悪いものではなく、まるで大きな川の流れに身を任せているような、不思議な安心感があった。失態をいじられる事はあっても、拒絶される事はなかった。私の悩みなどちっぽけなものに思えた。

私自身は変化していないのに、大阪では息苦しさを感じなかった

 故郷で感じていた息苦しさは、大阪では感じられる事はなかった。私自身は変化していないのに。私があんなに執着していた普通って、何だっけ。

 故郷で交われなかった「普通」に、大阪では交われたかというとそうではないのだと思う。大阪の「普通」はエネルギッシュで、スピード感に溢れている。私はそれに付いていく事ができず、戸惑う事も多々あった。それでも息苦しさを感じなかったのは街や人の許容量が底が知れない程大きいものだからだろう。マジョリティになれなくても、ただ存在する事が許されるというだけでこんなに心地よいものだとは思わなかった。

 結局「普通」なんてその時その場で作り出される非常に流動的なもので、決して普遍的、恒久的なものではないのだ。それを知る事ができただけで生きやすくなった。自縛自縄で勝手にがんじがらめになっていた私は、大阪でやっと縄を解いてあげられた。