「『男性に奢ってもらうのがふつう』だと思うな」
これは私がよく友達に言われる言葉だ。
女友達との間でも男友達との間でも、この「奢り奢られ論争」をたびたび繰り広げては、「男性に奢ってほしい」と主張する私は「がめつい女だ」と決まって多方面からの非難の的となる。

男性に奢られたい。でも、「男性が奢るのがふつう」には首をかしげる

ここで一つ言わせてもらいたい。私は別に、自分のお金を浮かせたいという理由でデートにおける食事代などを男性に払ってほしいと思っているわけではない。ただ、頑張って働いて稼いだお金を私のために使ってくれているという気持ちが欲しい、それが嬉しいだけなのだ。そこから自然に生じる「奢られたい」いう気持ちは、果たして「ふつう」ではないのだろうか。

また、「男性が奢るのがふつうだから!」と女性に財布を出させない太っ腹な男性に出会うこともある。そういう男性に対しては素直にありがとうございますとご馳走してもらうけれど、その「男性が奢るのがふつう」という考え方にも私は若干の違和感を覚えてしまう。男性が奢って女性が奢られるのがふつうだから、その「ふつう」から逸脱しないために私に食事代を奢ってくれるのか。じゃあこの人は女性が奢るのがふつうだったら、私のためにお金を出してはくれないのか。我ながら面倒くさいとは思いつつも、そういったことをぐるぐると考えてしまう。

ただの基準のはずが、無言の圧をかけてくる「ふつう」

結局奢られたいのかそうでないのかどっちだよ、と思われてしまうかもしれない。ただ私が考えるのは、男女間における「ふつう」とはそもそも何だろうか、ということだ。
「ふつう」であるとは、特に変わっていない、一般的であるということであり、本来であればただの基準にすぎず、同時になんの意味も持たないはずだ。しかし、私たちはしばしば「ふつう」に縛られるあまり本心から行動を起こすことができない。
「男性から告白するのがふつうだから」「男性からホテルに誘うのがふつうだから」「男性からプロポーズすることがふつうだから」日常生活のあちこちで私たちをとりまき、私たちの行動に無言の圧をかける「ふつう」は書ききれないくらいたくさんある。
なぜ私たちは本心を押し殺してでも、誰が決めたわけでもない「ふつう」にこだわるのだろうか。それはやはり周りから「ふつうでない」と思われたくないからだ。「ふつうでない」いうことはイコール他の人と比べて一般的でない、変わっているということだ。「ふつうでない」人間はしばしば自分が他人と違うということに生きづらさを感じ思い悩むことになる。

誰かに何かをしてあげたいという思いに性別は関係ないはず

私は、この「ふつう」という概念を良いものであるともそうでないとも思わない。ただそれが自分を抑圧し悩ませる原因であるならば、そんな「ふつう」なんていらないし、超えていきたいと思う。
私はこれからも男性に「奢るよ」と言われたら、素直に出しかけた財布をカバンにしまうだろう。でもそれが「ふつう」だとは決して思わない。男性が奢る、女性が奢る、男女で割り勘をする、色々な形があっていいと思うし、むしろ私たちそれぞれが違う価値観を持っているのだからそれは必然だとさえ思う。誰かに何かをしてあげたいという気持ちには、男性だからや女性だからといった理由は必要ないのではないか。
そして、私たちの思考をがんじがらめにする「ふつう」を超え、その窮屈さから解放されることができたら、もっと楽に生きられるのではないかと思う。私は各々がよりいっそう自由に自分の考えや価値観を表現し、それを認め合える世の中になってほしいと強く願っている。