世界中の人々がこの世の終焉を信じ恐れていた1999年を超え、なぁんだ、世界終わらないじゃん、と一息吐いた2000年。新たな時代の幕開けにお祭り騒ぎをしていたこの年に生まれた赤ん坊は「ミレニアムベビー」と呼ばれた。かく言う私もそのベビーのうちのひとりとして生まれ、2020年6月の誕生日で二十歳になった。同年生まれの方には共感していただけると思うが、西暦の下二桁を見ればその年の年齢が把握できるのが利点である。

心臓病を持つ母が命がけで産んでくれた私は極低出生体重児

私は、体重1072gという極低出生体重児として生まれ、生後まもなくNICU(新生児集中治療室)に入れられた。当時の写真を見ると、お猿さん、またはちょっと宇宙人のような、ともかくまだ人間らしくない薄赤色の私が無数の管に繋がれ、透明な保育器の中で眠っている。出産予定日の三ヶ月前に生まれた早産児でもある私は、その影響で左耳の聴力がない。感音性難聴である。幸い右耳の聴力は健常で、その他に大きな障害も抱えてはいない。

母は先天性の心臓病を患っており、出産はおろか、妊娠できたことも奇跡だった。出産の際、『万が一母子が命の危機に瀕した場合は相応の覚悟が必要だ』と担当医に言われた母は、『子供の命を絶対に優先して欲しい』と訴えたという。

定期検診で病院に行ったとき、周りの母親から不躾な視線を向けられるのが耐えられなかった、と母は言う。なかには『こんなに小さな身体で生まれてきてしまって可哀想』と母に直接言ってきた母親もいたそうだ。その日の検診後、母は車の中で私を抱きながらぼろぼろ泣いた。

このようなことが度重なり、母は私を周りに馬鹿にされない、他の子と同じ「ふつう」の、ちゃんとした人間に育てあげようと誓ったのだという。

よい成績を取ると母は喜んでくれた……最初のうちは。

母は私を幼児教育に長けた教室に通わせたり、教育の本を読んで勉強したりと、必死になって私を育てようとしてくれた。

その結果私は、幼稚園を卒園する頃には「年齢の割にしっかりした子」に成長した。特に、小学生になってから成績がつけられ、成長の成果が目に見えるようになると、同学年の子よりもできることが多いことを自覚するようになった。テストで良い点を取ったり、宿題に花丸を付けてもらったりしたのを母に見せるとき、私は母に褒めてもらえるだろうとわくわくしていた。母もそれらを見て喜んでくれた…最初のうちは。

好成績を収めることが「ふつう」になったとき、私に対する母の期待値は徐々に上がっていった。テストで90点を取ったとき、以前は高得点を褒めてくれたはずのに、いつしか獲得できなかった10点について咎められるようになった。

成績だけではなく、普段の生活についても厳しく躾けられるようになった。私の家に友達が遊びに来てくれているにも関わらず、先に宿題を終わらせなさいと母に言われ、困ったような顔をした友達の前で泣きながら解いた算数ドリル。母が見て少しでも字が汚いと思ったら、すべてのページを消されて何度も書き直させられた漢字ノート。母によって一日何ページとノルマが決められ、勉強机の棚を占領していた毎月届く学習教材。

どんな努力もすべて「ふつう」になり、私は機械になった

はじめは、良い成績をとれば母に喜んでもらえるからと頑張っていたが、それらの努力も母にとって「ふつう」のこと、できて当たり前のことになっていくにつれて、私は徐々に疲弊していった。けれども、勉強する手を止めれば母に怒鳴られ、ときには叩かれるようになると、私は何も考えられなくなった。機械的に勉強をし、テストで良い成績を収め、学級委員長としてクラスをまとめる優等生として生きるようになった。

もっと努力しなきゃいけない、勉強しなきゃいけない、周りの子よりも秀でていなきゃいけない。「ふつう」じゃ駄目だ、それより上を目指さなくては母に認めてもらえない、何か間違えたらまた怒られる…。

小学校中学年頃には、私は母からの圧力と時折及ぶ暴力に怯えながら、無意味に優等生を演じるようになっていた。そのスタンスは中学生、高校生まで続き、大学生になった昨年、はじめて自分の境遇に疑問を持ち、義務感から勉強することで得られたことなど何も無いと気付くことができた。

与えられた生き辛さと学を噛みしめて 私は母を許さないまま感謝する

母の教育方法、および教育方針は、一概には悪いとはいえない。時には行き過ぎた躾で私を拘束したことも確かにあったが、それは母が私を育てるために一生懸命努力し、必死になってくれた証である。だからといって母にされた事を許すことはないし、当時の記憶がフラッシュバックして発作を起こすこともあれば、生きづらさを抱えて生きる辛さを噛みしめることもある。けれども、私がこうして生きているのも、大学に通うことができているのも、私の努力だけでは為し得なかったことである。これは紛れもない事実だ。

だから私は、母のことを許さないまま感謝する、という矛盾を抱えて生きていく。

保育器に入った小さな私を見て、他の子供と同じ「ふつう」の子供に成長することを願った母。私がその期待に応えようと努力した結果、「ふつう」より上を強要するようになった母。際限なく上がり続けるハードルに必死に食らい付き、ときには絶望しながらも走り続けてきた私を、いつか母は認めてくれるだろうか。
私は、「ふつう」になれただろうか。

いつかその答え合わせをするときに笑っていられるように、母に『よく頑張ったね、偉いね、もう頑張らなくていいよ』と言ってもらえるように、私は「ふつう」を目指して生き続ける。